手塚治虫の名作『火の鳥』今あらためて注目されるワケ 混沌とする現代にのしかかる巨匠の言葉
なぜいま再び『火の鳥』が注目されているのか
じっさい、『火の鳥』の多くの物語で描かれているのは、文明の進化にともなう「戦争」の悲劇である。そう、使う武器が、弓矢か科学兵器かの差があるだけで、「過去」であろうと「未来」であろうと、人類は飽きもせずに殺し合いを続けているのだ。
物語の語り部でもある火の鳥は、こうした人間たちの愚行を、時に冷静に、時に悲しみながら見続けているわけだが、あらためていうまでもなく、火の鳥の視点とは、作者の視点である。ならば作者――手塚は、『火の鳥』という長大な物語を通して、「人類の愚行(戦争)は永遠に繰り返される」ということを伝えたかったのだろうか。たぶんそうではないだろう。
「未来編」の最後、一時は高等生物にまで進化したナメクジ(いまは退化している)を見つめながら、火の鳥はこんなことをいう。「ここではどうしてどの生物も間違った方向へ進化してしまうのだろう」
そして、その言葉を受けて、次のようなナレーション(作者の声)が入るのだ。
人間だって同じだ。どんどん文明を進歩させて、結局は自分で自分の首をしめてしまうのに。
「でも、今度こそ」と火の鳥は思う。「今度こそ信じたい。今度の人類こそ、きっとどこかで間違いに気がついて……生命を正しく使ってくれるようになるだろう」と……
〜『火の鳥』未来編より〜
周知のように、『火の鳥』が描かれたのは、いわゆる「冷戦」によって東西の世界が分断されていた時代のことである。そして当時はまだ、人々は、かろうじて「大きな物語」(ジャン=フランソワ・リオタール)を信じることもできた。
『火の鳥』は、そんな時代だからこそ生まれた寓話だったともいえるし、“国民作家”手塚治虫だからこそ挑めた大きなテーマの物語だったともいえるだろう(余談だが、手塚の死と冷戦の終結はほぼ同時期の出来事である)。
いずれにせよ、「いま」が『火の鳥』のような「大きな物語」が(あるいは、手塚治虫のような国民作家が)生まれにくい時代であるのは間違いない。しかしその反面、時代は再び、冷戦時とは違った意味での危機感にとらわれているともいえ、そんななか、あらためて同作への関心が高まっているのは、当然のことといえるかもしれないのだ。
混迷の現代――「でも、今度こそ」という、巨匠の重い言葉を噛み締めながら読んでほしい一作である。
























