【解読『ジョジョの奇妙な冒険』】自分が自分であるために――ディオ・ブランドーの「悪」の生き様にシビれよ

ディオ・ブランドーの「悪」の生き様

  悪役がすべてを決める。今回はそんな話をしてみたいと思う。

 ちなみに、『ジョジョの奇妙な冒険』シリーズ最大の悪役(ヴィラン)といえば、誰だろうか。第2部のラスボス、カーズ? 第3部のDIO? いや、あえて私は、第1部に出てくるディオ・ブランドーを推したいと思う。なぜなら、(繰り返しになるが)彼こそが作品世界の「すべて」を決めた、“始まりの存在”だからだ。

第1回「“ジョジョ”という名の時代を越えたヒーローたちの誕生」
第2回「スタンドという“発明”ーー他に類を見ない表現と概念を考察」
第3回「ツェペリ、リサリサ、ブチャラティ……物語を動かす「メンター」たち」
第4回「岸辺露伴とは何者か――稀代のトリックスターを分析」
第5回「荒木飛呂彦はいかにして独特なヴィジュアル表現に辿り着いたか【前編】」
第6回「荒木飛呂彦はいかにして独特なヴィジュアル表現に辿り着いたか【後編】」

「悪役」のいない世界に「正義のヒーロー」は存在しない

 あらためていうまでもなく、「悪役」のいない世界に、「正義のヒーロー」は存在しない。そもそも「正義」なる概念ほど、描きにくいものはないといってもいいだろう。

 たとえば、ドイツ文学者の種村季弘はこんなことを書いている。

 なまなましく、いきいきとして、極彩色に塗りたくられた悪にくらべて、この善はまた何と抽象的でしらじらしく、退屈なことであろうか。(中略)すでにいったように、善は抽象的な原理だから、善そのものを書くことは難しい。強いて書こうとすれば、しらじらしい教訓やお説教を枚挙することに終わってしまう。だから曰く言い難い善を書くには、地獄絵を見せながらの説法を語らなくてはならない。目にもあざとい具体的な悪を次々に並べ立てておいて、これらのおぞましい悪ではないもの、それこそが善だ、と言い、これらは悪だ、だからこういうことはやってはいけない、といえば、大方の読者は納得してくれるだろうという胸算用である。
~種村季弘「悪の娯しみ」(ちくま学芸文庫『書国探検記』所収)より~

 初めに「悪」ありき――漫画でも小説でも、物語の中で「抽象的」な「善」を単独で描くのは極めて難しく、それは、「具体的」な「悪」と対峙する形でしか、表現しようがないのだ。『ジョジョの奇妙な冒険』第1部でいえば、ディオ・ブランドーの悪の魅力なしに、ジョナサン・ジョースター(ジョジョ)の正義の輝きは表わしようがないということになる。

※以下、『ジョジョの奇妙な冒険』第1部のネタバレを含みます。同作を未読の方はご注意ください。(筆者)

ディオの悪の美学が、ジョジョの正義を際立たせる

 時は19世紀。ロンドンの貧しい家で育ったディオ・ブランドーは、ろくでなしの父親の死後、名門ジョースター家の養子となり、己の才覚1つで、貴族社会でのし上がっていこうとする。

 しかし、大学卒業を目前に控え、遺産を相続できる年齢になった時、ややことを急(せ)いてしまったせいか、秘かに養父を毒殺しようとしていた計画をジョースター家の長男、ジョナサンに見破られてしまう。そして、ジョナサンと警官らによって追い詰められた際、彼は、「石仮面」を被り、「人間であること」をやめたのだ。

 恐ろしい怪物(吸血鬼)と化したディオを、ジョナサンは一度は倒すものの、両者は、ウインドナイツ・ロットという三方を険しい山で囲まれた僻地で再び闘うことになる。その間、ジョナサンは、ツェペリ男爵という謎の人物から、「波紋」という東洋の仙道に伝わる特別な呼吸法(太陽と同じ波動を持つエネルギーを生み出すことができる技)を伝授され、“人外の者”と対等に闘える戦士として大きく成長していたのだった。

 と、これがまあ、第1部の中盤までのおおまかな流れであるが、この簡単なあらすじからも、常に悪役(ディオ)が一歩「先」へ進み、それを主人公(ジョナサン)が追いかける、というこの物語の基底構造が読み取れるだろう(そもそも第1部の第1話からして、主人公のジョナサンが登場する以前に、ディオの生い立ちと内面が丁寧に描かれており、メジャー誌の少年漫画の作りとしてはかなり異例な展開を見せている)。

 荒木飛呂彦は、著書『荒木飛呂彦の新・漫画術 悪役の作り方』(集英社新書)の中でこう書いている。

 僕の漫画では、主人公と悪役の共通点もあります。それは、どちらもとにかく前向きに生きているということで、主人公が善に向かって登り詰めて行くように、悪役も悪としてどんどん上がっていきます。(中略)互いにそうやって成長していくキャラクターが激突する、だからバトルがおもしろくなるのです。

 じっさい、子供の頃から「紳士」として教育されてきたジョナサンは、「正しい心」を持ってはいたものの、どこか浮世離れしているというか、物語の序盤では教科書通りの“いい子”すぎて、あまり魅力がない(異論があるかもしれないが、少なくとも私はそう思う)。

 だが、ディオが「悪としてどんどん上がって」いくにつれ、ジョナサンもまた、自らが「倒すべき敵」を現実のものとして実感できるようになり、そのことが結果的に、彼を正義のヒーローとしてひと回りもふた回りも大きく成長させることになるのだ。「怪物と戦う者は、その過程で、自らも怪物にならぬように気をつけねばならない」といったのはニーチェだが、そうした、自分は絶対に“向こう側”には行かないぞという善の存在としての強い信念が、中盤以降のジョナサンの凄みになっているといえるかもしれない。

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