【追悼】篠山紀信「カメラマンなんて偉くないよ」元編集者が語る、激・仕事術と写真の哲学

【追悼】写真家・篠山紀信さんの人柄

「今が俺の代表作だ」 篠山紀信の写真哲学

 一緒に仕事をする中で、根本氏が感じた篠山紀信のすごさはどんなところだったのだろう。

「被写体に対して、篠山さんは全く上から目線にならなかった。それがすごいところです。例えば子どもを撮る時は、その子達が普段やっている遊びなりゲームなり、面白いことに一緒に入っていって子どもと一緒に会話ができる。『激写』の時も、チャイドルブームの時も、あるいはもっと下世話だとされていたものや人を撮っていた時でも、相手が誰であろうと同じ目線。篠山さんは被写体を見下すことをすごく嫌っていました。カメラマンなんて全然偉くないんだ。被写体の中に入って一緒にものを作っているんだ。という感覚をずっと持っていましたね」

 有名な話だが篠山氏は昔、リオのカーニバルを撮った際に「カーニバルにはものすごいエネルギーが充満していて、自分では到底撮りきれない…どうやって写真を撮ればいいかわからない」となってしまった。そこで、「自分がリオのカーニバルの中に入っていってみんなと一緒になってバッと踊っていたらその時に初めて本当の写真が撮れた」そうだ。

 被写体の中、エネルギーの中に飛び込んでいく。言葉では簡単そうではあるが、カメラを媒介した中では、早々できるものではない。それをいとも簡単なことのようにできてしまうのは、間違いなく偉大な写真家だったといえるエピソードである。しかし、当の篠山氏は”偉大な人”という扱われ方を好まなかったそうだ。

 「篠山さんは神格化されることを好みませんでした。その場その場で一緒にいる人と一所懸命にやるだけ。すごいことじゃないんだよ、と常々言っていました。僕は、篠山さんはどちらかというとアーティストというより、どんな写真でも撮れる職人的な方だったように思います。『自身の集大成』と言われるような写真集は作らず、『今が俺の代表作だ』と常に言っていて、またそれがカッコ良すぎましたね。篠山さんも昔から言っていることなんだけど、中に入り込んで自分と対象との間に線を引かない。写真にもそういう姿勢が常に表れていましたね」

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