解読『ジョジョの奇妙な冒険』Vol.5
【解読『ジョジョの奇妙な冒険』】荒木飛呂彦はいかにして、あの独特なヴィジュアル表現に辿り着いたか[前編]
原哲夫的なリアリズムか、大友克洋的なリアリズムか
原哲夫は、いわずと知れた『北斗の拳』(原作・武論尊)の作画家だが、極論すれば、日本の漫画の「リアルな絵」は、80年代半ば以降、この原哲夫的な絵か、大友克洋(『童夢』、『AKIRA』)的な絵のいずれかに二分されたといっていい。
わかりやすくいえば、前者はさいとう・たかをや池上遼一らに代表される「劇画」の流れを汲む絵柄(Gペンによる強弱をつけた荒々しい線や、黒い画面などが特徴)であり、後者は写実的ないし映画的な絵柄(丸ペンやロットリングによる細く単調な線や、白い画面などが特徴)である。あるいは、前者をニール・アダムスらアメリカン・コミックスの流れを汲む絵柄、後者をメビウスらバンド・デシネの流れを汲む絵柄といってもいいかもしれない(もちろん、これはかなり大ざっぱな区分であり、大友もアメリカン・コミックスや劇画からの影響を受けているし、原も大友からの影響を受けている)。
そんな中、荒木飛呂彦が選んだのは、どちらかといえば、原哲夫寄りの劇画的リアリズムの絵だった。前述のように、これもまた「少年ジャンプ」という発表の場の絵的なトレンドを意識しての「変化」だったかもしれないが(『北斗の拳』は当時の「ジャンプ」の看板作品の1つだった)、それ以上に、荒木の頭の中にある「奇想」を具現化するには、大友が描く“写真のような絵”ではなく、原が描くような、リアリズムの中にもケレン味のある絵の方が適していたということだったのではあるまいか。
革新的な「超能力表現」へ
とはいえ、前掲書などを読むかぎり、荒木も(同時代の他の漫画家たち同様)大友克洋の作品をそれなりに「研究」していたようではある。では、いかなる影響があったのかといえば、それは、(変ないい方になるが)「リスペクトしつつも、あえて違う道を行く」という意味での影響だろう。
具体的にいえば、その最大の“成果”は、「スタンドバトル」に代表される「超能力表現」の革新である。
たとえば、大友克洋が『童夢』などで見せた「超能力表現」の「定型」はこうだ。
(1コマ目)超能力者が「力」を発動させようとして、「念」を込めるカット。
(2コマ目)唐突に物や人間が破壊されているカット。
つまり、大友作品では、1コマ目(=発端)と2コマ目(=結果)の間に“何が起きたのか”が具体的に説明されることはないのである(それどころか、1コマの中で「力の発動」と「破壊」が同時に描かれている場面さえある)。むろん、これはこれで独自のスピード感と異様な迫力を生み出せているわけだが(大友作品では、「殴る/殴られる」の描写も同様のカット割りで表現されている)、荒木飛呂彦は、そのいわば「1.5コマ目」(=超自然的な現象がいかにして起きたのかの説明)を、「スタンドによる攻撃」という形で実際に描いて見せたのである。
そしてその革新的な「超能力表現」は、後進の漫画家たちに多大な影響を与えつつも、荒木にしか描くことのできない唯一無二のバトル表現として、いまなお進化し続けているのだ。
以上、今回([前編])は、初期の荒木飛呂彦が、同時代の漫画のヒット作の数々から、絵的に優れている部分を貪欲に取り込むことで「変化」していった様子を書いたが、[後編]では、西洋のアート――とりわけ「マニエリスム」と呼ばれる芸術様式から受けた影響について「解読」してみたいと思う。([後編]に続く)