杉江松恋の新鋭作家ハンティング 『吾輩は猫である』の猫が転生? 宇津木健太郎『猫と罰』の誠実さ
作者が物語を思うようにしている小説というのが苦手である。
誤解を招くかもしれない。書き手が想像力によって世界を構築するのが小説というものである。だからすべては作者の手から生み出されるのは当然だ。
ここで言う思うようにしているというのは、作者が話を進める上で都合のよすぎる設定とか、進行上の偶然とか、そういう作劇法のことである。宇津木健太郎『猫と罰』(新潮社)を手にとったとき、最も気になったのはその点だった。作者にとってあまりに都合のいい猫だったらどうしよう、と思ったのである。
宇津木健太郎は2020年に『森が呼ぶ』(竹書房)で第二回最恐小説大賞を受賞してデビューを果たした。今回、本作で日本ファンタジーノベル大賞2024を獲得したのである。数々の作家を生み出してきた歴史のある文学賞で、出身者には綺羅星の如く作家の名が並んでいる。その最新受賞者ということでもともと期待していたが、『小説新潮』に掲載された選評を読んで驚いた。なんと主人公は、『吾輩は猫である』に登場するあの名前がない猫だというのである。その猫が、何度目からの生を授かって現代に現れた話だというところまで読んで、私は一切の情報を遮断した。ものすごく楽しみだったからだ。夏目漱石は大好きだが、『吾輩は猫である』がその中でもいちばんだ。何年かに一度は必ず読み返す作品である。それにちなんだ作品とあれば、どうして読まずにいられるものか。本が出るのを楽しみにしていた。
猫は九つの命を持っている、という英語の古いことわざが本書設定の元になっている。〈己〉こと主人公の猫は、これまでに八つの生を送り今度が九つ目、つまり最後で魂を天に召されることが決まっている。すべての生を終えたときのために欲するのが真名だ。その猫のために与えられた真の名前で、これがあるとないのとでは魂の値がまったく違うのだという。三つめの生を送っていたときの〈己〉は、ひどい癇癪持ちで物書きの男に飼われていた。最も心を惹かれた人間は彼だったのだが、なぜか男は〈己〉に名前をつけようとせず、「ネコ」「クロ」などと呼ぶばかりだった。「名前はまだない」である。それが〈己〉にとっての、三つの生での唯一の心残りとなった。
この猫が、魔女と呼ばれる女性・北星恵梨香が経営する古本屋・北斗堂に流れ着くという物語である。恵梨香が〈己〉を初めて見たときの第一声は「思ったより、早かったね」であった。不思議なことに、北斗堂に彼がやってくるのをあらかじめ知っていたようなのである。それはなぜか。北斗堂には〈己〉のような猫が数頭暮らしている。その風情は、まるで頼りない主に代わって店番をしているかのようである。
この北斗堂がどういう場所であるか、恵梨香がどういう人であるかという謎が読者の興味を牽引する役目を担う。それに加えて脇筋に、北斗堂に足繁く通ってくる神崎円という少女を巡る物語が準備されている。〈己〉と初めて会ったときの円は小学校の低学年だったが、次第に成長していく。十年以上の時が流れる小説なのである。やがて彼女は、本好き、物語好きが昂じてか、自分でも小説を書きたいと考えるようになる。それが本作の折り返し点で、以降はいかに書くべきか、どうすれば書き続けることができるか、という作家小説の性格が付け加わることになる。詳述は避けるが、物語を紡ぐという行為についての、真摯な思いがこの後半部からは感じられた。行間に漂う祈りとしか言いようのない感情は、作者自身のものだろう。
さて、ここまでで小説の主要な要素はすべて述べたと思う。付け加えるなら、近代から現在に至る、年代記的な要素が本作には備わっている。何しろ九回の生を送ってきている猫が主人公なのだ。転生のたびに彼は人間たちを見てきた。特にその、あさましい部分を。それゆえに〈己〉は人間を忌避するようになり、媚を売る同族の猫たちからも距離を取るようになったのである。その彼が恵梨香と円との関係を通じてどう変化していくのか、という成長小説の要素も本作にはある。
実は私が気になっていたのはそこで、猫と人間との関係をどう描くかが本作の肝だと思っていたのである。〈己〉は人間の言葉を喋る。つまり擬人化が行われているということだ。この擬人化の度合い次第によって、小説は傑作にも駄作にもなりうると思っていた。作者にとって都合のよすぎる技巧だからである。