杉江松恋の新鋭作家ハンティング 『吾輩は猫である』の猫が転生? 宇津木健太郎『猫と罰』の誠実さ

『吾輩は猫である』の猫が転生?

 元祖である『吾輩は猫である』を夏目漱石は1905年に書いた。主人公・珍野苦沙弥は漱石自身を戯画化した登場人物であり、猫が夏目家に棲みついたことが着想の元にある。「吾輩は猫である。名前はまだない」という有名な出だしや脱線のエピソードを積み重ねていく構成は、主人公の出生から始まる奇想小説、ローレンス・スターン『トリストラム・シャンディ』(岩波文庫他)から着想を得たとも言われている。もう一つ、19世紀の好色文学『吾輩は蚤である(蚤の自叙伝)』(富士見ロマン文庫)を漱石が読んで参考にした可能性も挙げておきたい。『蚤』は人体を住処とする寄生虫が、その視点から人間世界のばかばかしさを描いた物語だが、『猫』にも主人公が銭湯の屋根裏から湯舟に浸かる男たちの体を見下ろすくだりがある。この俯瞰の視点は『蚤』から来たものではないかと思うのだが、どうか。

 それはさておき。漱石の猫は世界を見る目であり人間の声を聴く耳であるから、どこへでも行ってなんでもできるという利点があった。それゆえ自由なのだが、逆に言えば自由すぎる。制約がないので、何でもできてしまうのである。後に書かれた同趣向の作品は、その陥穽にはまっているものが少なくない。作者が書きたいことを見て、言いたいことを聞くための道具に陥ってしまうのだ。『猫』の主人公が転生した〈己〉はどうだろうか。恐々と私はページを開いた。

 結論から言ってしまうと、作者は〈己〉に漱石の『猫』になかった性格要素を与えることでこの独善を回避した。先に述べたような過去生の影響から〈己〉は人間に対する強い不信の念を抱いている。それゆえ彼は、人間から独立した猫、猫らしい猫であろうと振る舞うのである。それゆえ「猫をかぶっている」他の猫を軽蔑すらしている。猫は不思議な生物で、人に対して心を許さないように見えるが、時として甘えすぎるほどに近づいてくることもある。よそよそしい猫と慣れ慣れしい猫、どちらが本当の姿なのかという謎に対して、『猫と罰』は一つの解を示しているようにも見えるのである。なるほど、そういう生物だから人間に対してはそういう振舞いをするのか、と。

 小説のどこにもそんなことは書かれていないが本作は、「人間に対して猫が取る態度が実に気まぐれなのはなぜか」ということを作者が真面目に考えた小説なのではないかと思うのである。その思考の結果、猫とはこういう生物である、という解が得られたのであろう。それに反しないよう、猫らしくない猫を書かないよう、実に注意して作者は文章を綴っているように思う。作者の生み出した物語が作者自身を縛ったのだ。これを誠実な書き手という。

 猫をちゃんと書こうとした。

 この一事で宇津木健太郎は信用できると私は思う。いい人を知った。

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