平野啓一郎が明かす、三島由紀夫への共感 「虚無のなかから文学的な美を創造することに自らの存在意義をかけた」

平野啓一郎『三島由紀夫論』を語る

 平野啓一郎が1998年に『日蝕』で文壇デビューした際、掲載誌「新潮」には「三島由紀夫の再来」と書かれていた。その平野が今年、『三島由紀夫論』を刊行した。執筆23年の大著だ。三島といえば、日本文学史に名を残す大作家であると同時に、1970年11月25日の陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地における衝撃的な割腹自殺でも知られる。本書は、彼が戦後社会に覚えた虚無感、天皇主義者としての政治思想、セクシュアリティなどを考察し、作品と死の実相に迫ろうとしている。なぜ三島に関心を抱いたのか、三島について考えることは小説家である自身にとってどのような意味を持つのかを、著者に聞いた。(円堂都司昭/6月16日取材・構成)

虚無感、ニヒリズムにとても共感しました

――14歳で三島の『金閣寺』に出合ったったことで、文学にのめりこんだそうですね。

平野:僕は1975年生まれなので読んだのは1990年です。三島作品をいろいろ読むうちに、彼が戦後社会に対して抱いていた虚無感、ニヒリズムにとても共感しました。

――平野さんは、いわゆるロスジェネ世代にあたりますが、その世代が過ごした時代と三島の時代になんらかの共通性を見出したんですか。

平野:小説というのは、読者が強引に自分に引き寄せて読むものでもあるので、あえていえばですけど、僕たちより若いミレニアル世代は、日本が長い凋落にあるなかで生まれ生きてきた。一方、ロスジェネ世代は、1980年代にはバブルもあって景気がよくて、いい学校へ行って、いい会社に就職したら父親世代のような豊かな生活を送れるイメージを持っていた。それなのに大学を卒業する時に就職氷河期がきて将来像が一変してしまった。僕はバブル景気だった10代の頃は北九州にいたので、ディスコで踊っているとか東京の狂騒的な状況を地方からメディアを通じて見て、強い反発を覚えたんです。こんな大人にだけはなりたくないと。それに対し、敗戦後に高度成長期を迎え経済的に繁栄したけれど、日本人の魂はどうなったんだといっている三島の主張に共感しました。「日本人の魂」という部分にはピンとこなかったけれど、バブルはその後すぐに崩壊した。三島は日本が停滞期に入る前に死にましたけど、経済的繁栄が空疎なものだと僕も実感して共感していました。

――1998年に平野さんは『日蝕』でデビューするわけですが、「三島由紀夫の再来」と付されたことで注目された半面、不必要な逆風も呼んだように記憶しています。

平野:三島には熱心なファンもいますし、「なんなんだ」と怒る人もいました。

――三島に対する感覚で周囲とズレがあったのだと思いますが、どのようなものでしたか。

平野:今回の本でも強調しましたけど、三島が戦後社会にニヒリズムを抱き、その空虚感を埋めあわせるため天皇、日本と同化してゆく思想的な流れに関心を持ったんです。文章が美しい、レトリックが華麗だという点は他の三島読者と関心を共有していたと思いますが、彼のニヒリズムや神秘主義の観点は共有したことがありませんでした。当時は、三島は文章は上手いけど中身がない、政治思想的に気に入らないといったネガティブな意見も少なからずありました。

 1990年代の文壇では、中上健次の死が、非常に大きかったんです。ポストモダン思想が隆盛の論壇で活躍した批評家の柄谷行人さんなどと同世代のヒーローだったから、中上一色だった。三島好きを公言してデビューした僕に、露骨に嫌みをいう人たちもいました。彼らよりさらに上の世代のアイコンが、三島でしたから。そういう意味では、三島が好きな人、嫌いな人、どちらにも自分と話があう人がいませんでした。

――でも、中上健次にも「天人五衰」という三島の作品と同名の短編がありましたし、それも踏まえて四方田犬彦氏が『貴種と転生』という三島的なワードを書名にした中上健次論を発表したりしていました。その頃にも三島と中上を対置する見方はあったと思いますが。

平野:四方田さんは、あの世代では例外的な人ではないでしょうか。僕に関しては周囲から「なんなんだ、今さら三島か」みたいな感じで見られていましたね。

――「新潮」2000年11月臨時増刊号に「三島由紀夫不在の三十年」という古井由吉、島田雅彦両氏と平野さんの鼎談が掲載され(平野啓一郎『ディアローグ』所収)、島田さんが三島を「サブカルチャーの帝王」と評したのに対し、平野さんが違和感を表明していました。島田さんはポストモダン側の作家だったといえますし、読み直すと世代差が感じられます。

平野:今は、島田さんのいうこともわかるんです。年齢的なこともあって本がだんだん売れなくなった三島は、一所懸命メディアに出たり努力しなきゃいけなかったんだと島田さんは話していて、僕はピンとこなかったけど、自分が歳をとると中年作家の苦労がよくわかる(笑)。島田さんは三島のリアルタイムの読者ではなく、子どもの時にメディアを通じて三島を見たから「サブカルチャーの帝王」の印象が強かったというのは、世代の証言として率直なものだと思います。島田さん自身が、三島が「中間小説」(純文学と大衆小説の中間的な小説)を意識して書いた『命売ります』にインスパイアされ『自由死刑』を書いている。

 文学史的にいうと、デビュー時の僕は、一つ上の世代からは冷遇され、その上の世代に認められデビューした作家なんです。批評でいうと岩波書店から出ていた雑誌「へるめす」の山口昌男さん、中村雄二郎さんとか、このお二人と同じく編集同人だった大江健三郎さんとか、作家では内向の世代に評価されました。その意味では隔世遺伝的なつながりがあって、古井由吉さんとは三島をめぐるあの鼎談でも共感することが多かった。『金閣寺』と『鏡子の家』をセットで読まないといけないという『三島由紀夫論』につながるアイデアは、あの時、古井さんがおっしゃっていて、僕もそうだなと思ったんです。三島自身も「対の作品」と書いている。

――鼎談があった2000年の「文學界」11月号に『三島由紀夫論』の「『英霊の声』論」のもとになった原稿が書かれています。小説の発表順でいうと『仮面の告白』、『金閣寺』、『英霊の声』、『豊饒の海』を論じた4章で『三島由紀夫論』は構成されていますが、論考の初出は「『英霊の声』論」が最も早い。同作を論の対象に選んだのは、編集部ですか。

平野:自分で書きたくて書いたんです。僕が理解する三島と社会が理解する三島のギャップを考えた時、三島の神秘主義的な側面があって、それが天皇観に色濃く反映されている。特に『英霊の声』での特攻隊隊員たち、天皇の描き方は、中世ヨーロッパの神秘主義者たちが神と一体化する描写と近い。『日蝕』で後者を題材にして文献もいろいろ読んでいたので、『英霊の声』からが書き始めやすかったんです。

三島がゲイであることを自明視することには疑問がある

――『三島由紀夫論』では、三島が空虚を埋めるものとして天皇や戦士共同体を希求したことが論じられていますが、平野さんにそれらに相当するなにかはありますか。

平野:ないですね。虚無のなかから文学的な美を創造することに自らの存在意義をかけた時期の三島には、今も共感します。でも、彼はそれだけではどうしても満たされず、行動を主張するようになり、天皇、日本といい出す。そうなると僕はついていけないんです。政治的な立場としてはだんだん、戦後民主主義の側に立った大江健三郎さんに近くなってきました。

 でも、僕は北九州の工業地帯出身です。大江さんの四国の森や中上健次の紀州の路地のように、故郷の神話的な共同体の空間が、最後は自分を受けとめてくれるという希望がまったくない。東京を中心とした繁栄に自分の居場所はないが、生まれ故郷にも豊かなものはない。三島の場合、観光小説みたいにいろいろな場所を恣意的に舞台に選び書いていた。それも三島に共感したところです。

――大江氏は今年亡くなられ、平野さんが「新潮」5月号に寄せた「戦後民主主義と文学」という追悼文では、大江『沖縄ノート』が刊行された1970年に三島が自決したことに触れていましたね。

平野:大江さんに怒られるでしょうが、この2人は、文学史的には仲の悪い兄弟という感じがするんです。戦後社会に空虚を感じた点は、三島も初期の大江さんも共通している。身体的な実感を持って充実感を得られるのは、エロティシズムを通じてだという点も近かった。天皇に対するこだわりも支持と反発で両極端ですが、2人はつながっている。大江さんは『さようなら、私の本よ!』など晩年の作品でも三島事件を書き、否定的でしたが最後まで文学的に気にし続けた。2人には強い影響を受けました。

 僕は、日本人批判の文脈で大江さんが、戦後民主主義者として自分も構造的な加害者の側にいるんだと自己批判を通じて日本人を批判したことに感銘を受けました。他方、天皇主義者である三島が、自分は本当の日本を知っているという立場から、「今の日本人」を批判するやり方には違和感があるんです。

――エロティシズムをめぐっては、『三島由紀夫論』の『仮面の告白』論で主人公の恋愛指向と性的指向の不一致について考察されます。一方、女性のボーイズラブ趣味は、女性の読者は自身の恋愛指向や性的指向とは別に、異性である男性の同性愛を性的ファンタジーとして楽しむもので、三島の死後には『仮面の告白』、『禁色』がその文脈で読まれた。1980年代には三島的な要素もある映画『戦場のメリークリスマス』が話題になったりもした。そのような受容をどうとらえますか。というのも、平野さんの最新長編『本心』で下半身に障害のある男性がバーチャル空間でアバターを用いて活動する時、マッチョにデザインされたボディを性的に誇示する描写があったからです。システムを介して性的指向が複雑化している。

平野:三島を「耽美的な背徳の世界」として読む女性は僕の周りにもいました。僕の知人でBL好きの女性と話していてハッとしたことがあるんです。「自分は異性愛者で性的なことに関心はあるけど、異性愛のアダルトビデオは好きじゃない。同性の裸を見たくない。BLがいい」っていうんです。でも、男の場合、そのへんを気にしないでしょう。おじさんの裸や性器を凝視しろといわれれば嫌でも、AVで女性とセックスしている映像なら、自分と一体化することによって、おじさんの局部を凝視できる。急に心理的な抵抗がなくなるのは、不思議な現象です。それで、どうして同化できるのかという関心から、『本心』では、リアル・アバターという職業を設定して自分の代理として性的経験をしてもらうとか、バーチャル空間でアバターを通じて性的経験をする場面を書いています。三島にも、この「代理」という発想はありますね。

 三島が異性愛者か同性愛者かの議論は、日本ではある意味でタブーでした。イヴ・セジウィックがいうように、ホモソーシャルな結合体にこそ、ホモフォビアがある。このため、三島の同性愛に触れることには反発もあったでしょう。また、三島の家族外での関係については、遺族も当然センシティブでした。ただ、堂本正樹さん、福島次郎さんなどの関係者の証言が本になってるし、海外の研究者には、三島の同性愛を当然の前提として議論をする人も少なくないです。

 ただ、三島には異性愛者としての面も同時にあったのではないでしょうか。彼が大きな精神的ダメージを受けた失恋経験は、ことごとく女性です。『仮面の告白』の苦悩は、女性に恋愛感情を持っても身体的に反応できないことにありました。『禁色』の檜俊輔は自分の代理として若者に性行為をさせ、『午後の曳航』の主人公の少年は母親と恋人のセックスを覗き見します。アバター的存在を通じて男女の関係を覗き見たい欲求が、作者のなかにもあったのでしょう。だから、三島がゲイであることを自明視することには、疑問があります。そもそも、本人はカミングアウトしていないのですから。

 クィア・スタディーズ(性的マイノリティ、性の多様性の研究)の間でも性的指向と恋愛指向は合致しているという発想が最近まで強かったのですが、アセクシュアル(恋愛感情はあっても性的欲求がないか少ない)への理解が進むにつれ、両者が必ずしも結びついているわけではないという視野が開けてきた。そのことをふまえ『三島由紀夫論』では、クィア・スタディーズの用語を使いながら議論を整理しました。

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