中村うさぎ、ラノベ黎明期から様変わり「異世界転生」氾濫に喝「テンプレ小説ばかり、書いてて恥ずかしくないのかな」

中村うさぎインタビュー

ゲーム雑誌の人気ライターに!

――中村先生はその後、ゲーム雑誌「コンプティーク」でライターデビューを果たします。デビューまでの経緯を教えていただけますでしょうか。

中村:もう一人、コピーライターをやっている友達がいて、その子はパソコンゲームのオタクでした。当時はパソコンゲームは主流ではありませんでしたが、勧められて買ったらはまってしまい、ゲームオタクになってしまいました。

――ゲームが縁で、「コンプティーク」に出合うわけですね。

中村:そうです。「コンプティーク」はゲームの攻略用に買っていましたが、ふと奥付を見たら「ライター募集」と告知を見つけたのです。商業用の文章なら自信があるし、ゲームでいち早く遊べて、お金までもらえる夢のような仕事だと思って応募したんです。

1983年に角川書店から創刊された「コンプティーク」は、パソコンゲームを中心としたゲーム雑誌だった。現在は美少女ゲームやアニメを中心に多様な情報を掲載し、現在のKADOKAWAのメディアミックスの中核を担う雑誌の一つ。本書から誕生したライトノベルや漫画、ゲームは数多い。


――そして、ライターとして採用されたわけですね。

中村:はい。初めはコピーライターとゲームライターの二足の草鞋だったのですが、昭和から平成に移り変わる頃にバブルが弾けて、まるでタイタニックのように広告業界が沈んでいきました。コピーライターは文章を自由に書けないし、イマイチな商品を持ち上げるのにも嫌気がさしていましたが、「コンプティーク」はのびのびと書けて楽しかったのです。31歳くらいで、ゲームライター1本で食べていくことを決めました。

――1本に絞るのは結構な博打だと思いますが、仕事の依頼はどうでしたか。

中村:当時はゲームライターが少なかったので、仕事は結構頼まれましたね。ゲームをプレイして、レビューをいろいろ書いていました。シューティングやアクション系、スポーツ系はできないので、RPGやアドベンチャー専門でしたけどね。

――80年代はゲーム雑誌が相次いで創刊され、業界に活気もあったと思いますが、編集部はどのような雰囲気だったのでしょうか。

中村:広告会社は今で言うリア充の集まりだったけれど、「コンプティーク」は見事にオタクばっかり(笑)。大学生のドルヲタがアイドルの記事を書いていましたし、アニメやゲームもそれぞれの凄く濃いオタクがいましたね。私は自分がオタクだと思っていたけれど、「コンプティーク」では一番薄い感じでした。あと、広告会社ではパソコンなんかやっている人はほとんどいなかったけれど、「コンプティーク」の編集部では普通に使いこなしていたのが驚きでした。世間とまったく異なる世界でしたね。

執筆した記事から、あのキャラクターが誕生

――「コンプティーク」で印象的だった仕事はありますか。

中村:当時の「コンプティーク」には18禁の袋とじがあったのですが、それを担当させてほしいと言って、女性ライターで初の18禁ゲーム担当になったことかな(笑)。読者をいじり倒した文体で原稿を書いたらM心を刺激したのか、結構受けたんですよ。

――そして、中村先生の代表作『ゴクドーくん漫遊記』の主人公、ゴクドーくんの原点も「コンプティーク」にあるそうですね。どのような経緯で生まれたのでしょうか。

中村:極道くん(編集部注:誌面では漢字表記。なお、小説のタイトルの“ゴクドーくん”も同様に初期は漢字表記だった)は記事の中で使うために作ったキャラです。当時のRPGの攻略ルートって、複雑な分岐があるわけでなく一本道で、与えられたクエストをクリアしないと次の街に進めません。そのためには、例えば捕らわれた姫のことが嫌いでも助けなきゃいけない。つまり、性格がいい善人にならないと話が展開しないのです。ところが、『ルーンワース』というゲームは、なんと依頼を断っていいゲームだったんですよ(笑)。

――それは凄いですね(笑)。依頼を断りまくっても別ルートでクリアできると。

中村:そうなんです。異質なRPGでした。だったら正規ルートだけじゃなく、裏道の“悪人ルート”を通ったレビューを書こうという話になりました。悪人ルートの主人公に据えたのが極道くん。悪たれ小僧でギャグっぽい設定にしたら、読者に大ウケしたんですよ。私も極道くんの方が書いていて楽しかったですね。

『ロードス島戦記』の歴史的ヒット

――極道くんの誕生をきっかけに、中村先生は小説を書き始めたのでしょうか。

中村:その前にも一段階あるんです。「コンプティーク」のテーブルトークRPGのライターだった水野良さんが、角川スニーカー文庫から『ロードス島戦記』という小説を出してすごく人気が出たんですよ。噂で水野さんが印税で家を建てたかとか聞いて、うらやましかったですね。私はお金持ちになりたいと思っていましたから(笑)。

『ロードス島戦記』は「コンプティーク」誌上で連載が始まり、水野良による小説版が出版され大ヒット。出渕裕による美しいイラストも人気を集めた。


――『ロードス島戦記』は後のライトノベルに影響を与え、現在活躍する作家でも影響を公言される方がたくさんいます。

中村:それまでのジュニア小説といえば学園ものだったり、格闘もの、スポーツ系などがメインでした。要は、「週刊少年ジャンプ」などの流行りの漫画と同じ路線でしたね。ところが、角川書店は『ロードス島戦記』がバカ売れしたおかげで、これからのジュニア小説はファンタジーだと気付いたのです。

――なぜ、ファンタジーがこのタイミングで受けたのでしょうか。

中村:80年代に『ドラゴンクエスト』のヒットがあったからだと思います。『ドラクエ』で得た教養があったから、子どもたちがファンタジーの世界に馴染めたんですよ。私は、『ドラクエ』と『ロードス島戦記』が日本にファンタジーを定着させた立役者だと思っています。

――水野さんがどれだけ稼いだのかは謎ですが(笑)、それだけ人気が出たのであれば一気に書き手が出現しそうですね。

中村:そう思いますよね。ところが、書き手がいなかったのです。学園ものやラブコメを書いていた人が、いきなりファンタジー小説は書けなかったんですよ。剣と魔法の世界のお約束……例えば、エルフやドワーフといった架空の種族の設定にも厳然たるルールがあるんですが、そういったファンタジーの基礎知識がないわけですからね。そこで、お約束を知っているゲーム雑誌のライターに、小説を書いてみないかと声がかかるわけです。私は水野さんに憧れていたし、お金も欲しかったから(笑)、やりますと手を挙げたんです。

『ゴクドーくん』が記録的なヒット作に!

――かくして、中村先生は1991年にライトノベル作家としてデビューします。処女作『ゴクドーくん漫遊記』が大ヒットしました。

中村:『ゴクドーくん漫遊記』は人生で初めて書いた小説で、本当に素人だったのですが、書き出す前にかなり細かく設定を考えましたね。私が重視したのはパロディの精神です。『ドラクエ』や『ロードス島戦記』には、主人公が世界を救うという崇高な精神がありますよね。その二番煎じを書いても特徴的な物語は作れないと思ったので、ことごとく正義と反対の主人公にしようと考えました。その時思い浮かんだのが、「コンプティーク」で作った極道くんだったのです。

――その狙いが的中したのですね。

中村:発売して1ヶ月かそこらで、編集さんから「次も書いてね」と言われました。編集会議で決まったらしいです。アンケートや売上の結果を見てその後の方針を決めるのは、「週刊少年ジャンプ」のような漫画雑誌のマーケティングの手法が入っていたと思います。

『ゴクドーくん漫遊記』の2巻。中村は1巻の原稿を書いた際、仮に話が続いても大丈夫なようにと考えながら結末を書いたというが、早くも2巻が刊行されることに。異例の長期シリーズとなった。


――『ゴクドーくん』が売れていると実感したきっかけは何ですか。

中村:最初の巻が出たとき、編集部が売上の順位表を見せてくれたんですよ。6人くらい新刊を出した中で私はベスト3に入っていて、関西、特に大阪で売れていたようです。「ゴクドーくん」は大阪っぽいノリなのかなと思いましたね。本当に売れていると実感したのはサイン会です。夏休みの時期に、編集部は子どもを誘きよせるために作家のサイン会を企画し、各地を転々とさせていました。デビューしたての時はそんなに並んでいなかったので、本屋さんに申し訳ないと思ったけれど、1993年ぐらいかな、東京でサイン会をしたときにすっごい並んでいるのを見たんです。

――手元にある1巻を見てみたら、発売から数年で2桁の刷り部数です。売れていますね(笑)。

中村:印税が2~3千万円くらい入ってきましたが、今まで見たこともない金額なわけですよ。だから、シャネルを買ったわけ(笑)。巻数を重ねていくと、3か月に1回締切があるペースでスケジュールが組まれました。90年代後半の全盛期は3社くらいを掛け持ちしていて、本当に忙しかったですね。

『ゴクドーくん漫遊記』は漫画版も制作されるなど、多彩なメディアミックスが行われた。

当時のライトノベル業界事情

――売れっ子作家ならではの苦労といえますが、執筆中に中村先生が嬉しかった出来事はありますか。

中村:コミケに行ったときに、『ゴクドーくん』のエロ漫画を描いているサークルが結構あったことですかね。ルーベットとアーサが絡むとかね(笑)。作者だと名乗らずに買いましたよ。二次創作をされることを嫌う作家もいるけれど、私は嬉しかったんだよね。二次創作をするくらい、キャラクターに肩入れしてくれていると思ったから(笑)。

――当時、業界内でライバル視していた作家さんはいますか。

中村:特にライバルと意識した作家さんはいなかったですね。あかほりさとるさんがギャグ担当で、正統派のファンタジーでは水野良さんや友野詳さんがいて、みんな作風が違っていたので競合するという意識はなかったです。出版社のパーティーでたまに会う程度だったけれど、作家同士の仲も良かったと思いますよ。

――あと、90年代はまだライトノベルという言葉が一般的ではありませんでしたよね。広く使われるようになったのは、いつ頃なのでしょうか。

中村:ライトノベルという言葉の起源はわかりませんが、定着したのは少なくとも2000年前後だと思います。90年代のはじめは、「ヤングアダルト」「ジュニア小説」「ジュブナイル」などと呼ばれ、統一されていなかったと思いますね。『ゴクドーくん』を書いている頃、大塚英志さんが「キャラクター小説」という言葉を作ったのは覚えています。漫画みたいなキャラクターありきの小説という意味で、『ゴクドーくん』もその典型的だなと納得したんですよ。

嬉しかったアニメ化はショックも大きかった

――『ゴクドーくん』はメディアミックスも積極的に行われました。

中村:私がデビューした頃からメディアミックスという言葉はありました。角川歴彦さんや佐藤辰雄さんが中心となり、角川書店の社内にメディアミックスの概念を取り入れたんですよ。小説が売れたらラジオドラマや漫画になって、究極はアニメ化……という、現在と変わらないビジネスを始めました。私もドラマCDが出て、アニメ化が決まったときは、めっちゃうれしかったんですよ。

――実際に放送されたアニメを見て、いかがでしたか。

中村:アニメが始まったら、思い出したくない嫌なことばっかり(笑)。原作が改変されてしまいました。何より脚本が気に入らなかったんです。原作者には当然発言権があるのですが、アニメはあくまでも別ジャンルの制作物で、意見を言わないように編集者が巧妙に動くんですよ。実際、脚本には口を出すなと言われたし、私の作品じゃないと割り切って文句を言わないようにしました。

――当時はアニメで原作が改変される例は珍しくありませんでしたが、クリエイターとしては辛いですよね……

中村:だから、アニメはほとんど見ませんでした(笑)。脚本を読むと、私はゴクドーくんにこんなこと言わせないな、というセリフばかりだったし。勝手にオリジナルキャラを作られたり、挙句の果てにゴクドーくんに人生論なんかを語らせたりして。あまりに原作を無視した改変ぶりに、カチンときたこともあります。

――しかしながら、今でこそライトノベル原作のアニメは多いですが、当時は『スレイヤーズ』などの例があったにせよ、少数でした。ゴクドーくんは声が石田彰さんで、ニアリーが三木眞一郎さんと、気合の入った声優陣です。出版社側も思い入れも深い作品だったように思えます。

中村:そうなんでしょうかね。石田くんといえば、私はアニメのラジオ番組に出演したこともあるのですが、おとなしい石田くんに対し、調子に乗ってイジりすぎてしまい、反省しています。今思えば、若くて純真な石田くんに、下ネタでセクハラ発言みたいなことまでしていました。このことは申し訳なかったと思っています。

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