岩波文庫、実は「幻想と怪奇」の宝庫? 奇書中の奇書『サラゴサ手稿』ついに全訳登場


 「岩波文庫」と聞いて、あなたはどんな印象を思い浮かべるだろうか。おそらくは、「古くからある」「難しそう」とか、「教科書的(堅い)」というものではないだろうか。

 確かに、同文庫にはそういう側面がある。だが、それは別に悪いことではなく、たとえば、「古い」「難しい」は、決して「面白くない」と同義ではないのである。また、教科書的な“お堅い”(あるいは地味な)作品が数多く収録されているのも事実ではあるが(巻末に記載されている刊行の辞を読めば、同文庫の原点がある種の教養主義であるということがわかるだろう)、その一方で、いわゆる「奇書」――とりわけ幻想文学やSF、冒険小説と呼ばれるジャンルの“珍品”も結構な数が収められている、と聞いたら、改めて興味を抱く人もいるかもしれない。

 そのことを私は、かつて、荒俣宏の「ぼくのお師匠さんのこと」というコラム(『稀書自慢 紙の極楽』中央公論社・所収)を読んで知った。タイトルにある「お師匠さん」とは、英米怪奇文学の翻訳で知られる平井呈一のことであるが、“弟子入り”のそもそものきっかけは、中学2年生だった荒俣少年が、(平井がおもな翻訳家の1人として起用されていた)東京創元社の「世界恐怖小説全集」に感動し、ファンレターを送ったことであったという。

 平井はその手紙の返信にて、「同好の若人をえたことを心から喜んで」いると記し、『いのちの半ばに』(アンブローズ・ビアス)や、『ねじの回転』(ヘンリー・ジェイムズ)といった岩波文庫を荒俣に勧めている。以下、少々長くなるが、その平井からの返信を受け取った荒俣の感動(と岩波文庫の魅力)が伝わってくるとても良い文章なので、引用したいと思う。

 忙しいから、と断りながらも、原稿用紙三枚の長さだった。中学生は、これほどの達筆を見たことがなかったから、全文を正しく読めなかった。それでも、岩波文庫が何やら幻想文学の宝庫であることが判明したのが、大きな収穫だった。くりかえすけれど、お師匠さんの言葉を拡大解釈した愚生は、岩波文庫が幻想と怪奇に満ちみちたファンタジー文庫なのだと、心から信じたのである。

 それから、毎日のように古本屋あさりがはじまった。古い文庫の棚から岩波文庫を拾いあげることが日課になった。お師匠さんの一言が中学生に与えた影響は実に甚大で、岩波文庫の棚の前に居すわる中学生をつくってしまったのである。

 岩波文庫が幻想と怪奇に満ちているなんて、とんでもない勘ちがいだわね、と、あなたはおっしゃるかもしれない。ところが! 岩波文庫の棚を掘りかえすうちに、出るわ、出るわ、幻想文学がほんとにザクザクと出てきてしまったのである。

 ビアーズ『いのちの半に』とヘンリー・ジェイムズ『ねじの回転』だけではない。あのヴィリエ・ド・リラダン『未来のイヴ』、フローベール『聖アントワーヌの誘惑』、ホフマン『黄金宝壷』と、次々に大傑作にぶつかった。このときの恍惚は、そのあと二度と味わっていない。

〜『稀書自慢 紙の極楽』荒俣宏(中央公論社)より〜

怪奇と幻想に満ちたファンタジー文庫

 じっさい書店に足を運んで、岩波文庫の棚を見回してみれば、荒俣がいうように、同文庫がある意味では「幻想と怪奇に満ちみちたファンタジー文庫」であるということがわかるだろう。

 中には品切(絶版)になっている名著も少なくないが、現在入手できるものでは、たとえば、日本文学だと、泉鏡花、宮沢賢治、內田百閒、江戸川乱歩、久生十蘭らの短編集や、『河童』をはじめとした一部の芥川龍之介作品、尾崎翠『第七官界彷徨・瑠璃玉の耳輪』、佐藤春夫『美しき町・西班牙犬の家』、萩原朔太郎『猫町』、夏目漱石『夢十夜』、石川淳『至福千年』といったところが幻想文学ないしそれに近い作品といえるだろうか(個人的には幸田露伴『幻談・観画談』を勧めたいところであるが、残念ながら現在は品切の様子)。

 また、海外文学では、『伝奇集』など、ボルへスの著作がまとまった形で刊行されている他、池内紀の名訳が冴え渡る『ホフマン短篇集』(同書に収録されている世にも不気味な物語「砂男」をぜひとも読まれたい)、ハーン『怪談』(こちらの訳者は前述の平井呈一)、コルタサル『悪魔の涎・追い求める男』、ヴォルテール『カンディード』、ブルトン『ナジャ』、ブッツァーティ『タタール人の砂漠』、ヴェルヌ『地底旅行』、チャペック『ロボット』、『山椒魚戦争』、『白い病』、カルヴィーノ『まっぷたつの子爵』、エーコ『バウドリーノ』あたりが、この手の物語を読む悦びを教えてくれるだろう。中でも未知の疫病を描いたチャペックの戯曲『白い病』は、コロナ禍のいまこそ読むべき物語だ。

 さらには、文学以外でも、近年読書界で話題になった、“天狗にさらわれた少年”寅吉の記録『仙境異聞・勝五郎再生記聞』(平田篤胤)や、17世紀末に実在した海賊の手記『ダンピア 最新世界周航記』のようなノンフィクションの「奇書」も刊行されている(余談だが、ダンピアという人物は、『天幕のジャードゥーガル』で現在ブレイク中の漫画家・トマトスープによる『ダンピアのおいしい冒険』でも注目を集めている)。

 いずれにせよ、こうした奇想天外な物語群が、比較的安価で入手できる岩波文庫は、私のようなあまり懐が豊かではない本好きにとって、いまも昔もありがたい存在なのである(最近では、他の文庫本レーベル同様、作品によっては1000円を越えているものもあるが、それでも内容の濃さを考えたら安いものだ)。

 さて、そんな岩波文庫から、先ごろ「奇書中の奇書」ともいうべき決定的な作品が刊行された。

 ヤン・ポトツキの『サラゴサ手稿』(全3巻)である。

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