岩波文庫、実は「幻想と怪奇」の宝庫? 奇書中の奇書『サラゴサ手稿』ついに全訳登場
ポーランドの大貴族が書いた奇想天外な物語
ヤン・ポトツキは、1761年、現ウクライナのピキウで生まれた、ポーランドの大貴族である(1815年没)。生涯を旅に費やし、時には政治にも深く関わったこの異才は、歴史家としての顔も持ち、いくつかの歴史書や旅行記を残した。
『サラゴサ手稿』は、そんなヤン・ポトツキが書いた奇想天外な物語である。主人公は、ワロン人衛兵隊長の任を拝命するため、首都マドリードを目指す若者、アルフォンソ・バン・ウォルデン。
あるとき、スペイン南部のシエラ・モレナ山脈に足を踏み入れた彼は、打ち捨てられた旅籠で、奇妙な一夜を過ごすことになる。夜が更けた後、彼のもとに謎めいた美しい姉妹が現われ、ゴメレス一族というかつてイベリア半島を支配した一派について語り出すのだった。そして翌朝、彼はなぜか、盗賊ふたりが吊るされた絞首台の下で目を覚ます……。
物語は、この後、アルフォンソが出会った人々の“語り”の積み重ねという形で進んでいく。ある者は、自らの人生を語りつつ他者の人生をも語ることになり、つまり、語り手Aの人生の中に語り手Bの人生が組み込まれ、必然的に物語は複雑な入れ子構造になっていく。
登場するのは、庵の隠者、悪魔憑き、盗賊、カバラ学者とその美しき妹、ジプシーの族長、あらゆる事柄を幾何学で解こうとする男など、多彩な面々。彼らが語る内容は、歴史、宗教、旅、哲学、神話、怪談から、幾何学、博物学にいたるまで、実に多様なものであり、まさに博覧強記の著者にしか書けないスケールの大きな“奇譚”だといえよう。とりわけ、キリスト教、イスラーム、ユダヤ教に対する柔軟な視点(より具体的にいえば“宗教とは何か”という問い)は、ヨーロッパとオリエントの違いを、先祖伝来の感覚としてよく知っていたヤン・ポトツキならではのものではあるまいか。そしてその視点は、世界とは何か、文明とは何か、人間とは何か、というさらなる根源的な問いかけへと繋がっていく。
ちなみにこの『サラゴサ手稿』、1980年に、工藤幸雄による訳書が国書刊行会より出版されている(「世界幻想文学大系」19巻)。ただしそれは、この長い物語の一部分の翻訳であり、つまり、今回の畑浩一郎訳の岩波文庫が、「初めての全訳」ということになる(なお、原本の複雑な出版の経緯については、岩波文庫版の「訳者解説」を読まれたい)。
いずれにしても、この、幻想文学、冒険小説、ホラー、ピカレスク、ビルドゥングスロマン、恋愛小説、歴史小説、そして、哲学書や軍記物、旅行記の要素まで含んだ長大な「奇書」を読み通すには、かなりの集中力と時間が必要だと思うが、気が遠くなるような長い物語を読了することでしか得られない感動というものがあるのも事実だ。
そう、中巻のオビのアオリ文句にもあるように、「だから辛抱して、この物語を最後まで聞くのだ」。
※「ジプシー」という言葉は、現代では差別的とされていますが、「作品の歴史性や特徴」を考慮したうえで使用したという岩波文庫版の『サラゴサ手稿』にならい、本稿でも使いました。(筆者)
【参考】畑浩一郎「訳者解説」1〜3(『サラゴサ手稿』ヤン・ポトツキ作/畑浩一郎訳/岩波文庫/上・中・下・所収)