「2050年に30歳以下で年収200万円以下は普通にありえる」 近未来SF『プロトコル・オブ・ヒューマニティ』のリアリティライン

長谷敏司『プロトコル・オブ・ヒューマニティ』を語る

 事故で右足を失ったダンサーの護堂恒明は、AI制御の義足を得て、人間とロボットによるコンテンポラリーダンスの公演を行うための準備に励む。だが、偉大な舞踊家である父が認知症を発症し、恒明は同居して介護しなければならなくなる。長谷敏司『プロトコル・オブ・ヒューマニティ』では恒明が、AI義肢、ロボット、変わっていく父と向きあうなかで、ヒューマニティ(人間性)と、コンタクト(接触)のためのプロトコル(手続き)が問われていく。本の帯には「それは、最も卑近で最も痛切なファーストコンタクトの始まりだった。」とある。ファーストコンタクトとは、異文明や異種族などとの最初の接触というSFにおけるテーマを指す言葉だが、2050年を舞台にしたこのリアルな未来の物語はいかに書かれたのか。著者に聞いた。(円堂都司昭/11月15日取材・構成)

ロボットと人間が踊っている様子が、衝撃的だった

長谷敏司『プロトコル・オブ・ヒューマニティ』(早川書房)

――あとがきによると、『プロトコル・オブ・ヒューマニティ』は、大橋可也(かくや)&ダンサーズのコンテンポラリーダンス公演とのコラボ企画で中編小説を書いたのが始まりだそうですね。

長谷:2014年に大橋可也さんからダンスと小説でコラボレーションした舞台を作りたいとお話をいただきました。その最初の打ちあわせ後に僕が送ったタイトルが『プロトコル・オブ・ヒューマニティ』でした。ただ、僕の方が仕事とかの事情で遅れてしまって、実際にかたちになったのが2016年。本当は大橋さんがダンスの舞台を作るのと並走して小説を書き、互いに影響されながら進めるという風に計画したんですけど、実際には僕の過去の小説『あなたのための物語』(2009年)を材料にして大橋さんが人間とロボットの共演するダンスを作り、新たに書いた中編を公演会場で冊子として配る形のコラボレーションに落ち着きました。それが『プロトコル・オブ・ヒューマニティ』という同名の中編小説だった。

 2016年のその公演には、ものすごく衝撃を受けたんです。コンテンポラリーダンスのカンパニーなんて、研究室から特別に高度なロボットを連れてくる伝手があるわけではないから、当時、店舗とか様々な施設で使われて家庭用としても売り出されていたソフトバンクのPepperを使ったんです。

protocol of humanity layer1
protocol of humanity layer2

 Pepperは価格帯としては、スクーターと同じか安いくらい。そういうロボットと人間が踊っている様子が、衝撃的だった。SFではロボットと人間の関係を主要テーマとして扱ったりしますけど、その舞台ではダンサーとロボットと観客、人間とロボットの距離が近かった。観客と、今話しているこの部屋の端と端くらいの距離感で踊っていました。その距離感が作る空気に、とてつもないリアリティを感じました。ダンサーが踊っていることに心動かされると同時に、舞台上で踊るロボットが人間に接触する距離まで近づいてゆくだけで、言葉にならない異様さ、迫力があった。具体的な体がそこに存在するリアリティとしか言いようがないもの、小説でも書きようがない世界が、スクーターと同程度の値段の、とっくに普及しているロボットと人間の間で成立してしまっている。人間とロボットのそんな関係がすでに当たり前になってしまった世界で、今日からSFとしてなにを書けばいいんだと衝撃を受けたんです。

 同時に、自分が書いた中編小説はあまりにも弱いと思い知らされた。ダンスに対する知識、考えの蓄積もなかったし、身体やダンスについてSFとしてもっと書けるはずだという思いがあった。この人間とロボットのダンスという題材で、自分なりにある程度満足できるものを書いておかないと、作家として10年先にSFを書いていられないだろうと感じました。それが、『プロトコル・オブ・ヒューマニティ』を長編小説として書き直した一番のモチベーションです。

――これまでAIと人間のコラボレーションで興味を持ったものはありましたか。

長谷:平田オリザさん原作で石黒浩先生のアンドロイド「ジェミノイドF」を使ったアンドロイド演劇『さようなら』は面白かったです。ただ、よくできていましたけど、それはSF作家として危機感や恐怖を覚えるものではなかった。なぜかというと「ジェミノイドF」は研究室にしか存在しないものだし、その種の最先端のものを使えばこれくらいのことはできるということは、ニュースの延長線上で予測することができたんです。でも、一般社会で普及しているPepperに追い越されたらもういいわけがきかないし、間違いなく時代に遅れていることになってしまう。SF作家にとって、時代に追い越されている自覚を持つのは、存在意義を疑われる恐怖体験ですよ。

――今回、本になった長編に比べ、以前の中編はどのようなものだったんですか。

長谷:人間とロボットのダンスをどう書くかという問題意識をもって、まず長編化の準備を進めました。けれど、その最中の2018年から父の認知症が始まって介護をするようになって、それで小説に介護という要素をとりこみました。だから、介護は中編版になかった要素です。ロボットと人間の関係を考えていた最中に、父のことで、人間性とはそんなに強固だろうか、無批判に扱っていいのか、と疑いを感じざるをえない現実が襲ってきた。その壊れやすく不確かさをもった人間性を描かずにロボットを書くのでは、人間側に立つ自分が不誠実に感じられる。家族である父が今まさに認知症が進んでいて、それまでできていたことができなくなる。父はこういう人間だと思ってきたけれど、それが日々、通用しなくなっていく。自分を育んだ家族との関係すら必ずしも強固なものとは言えないと思い知らされた。その過程を経験しておきながら、人間とロボットという形でシンプルに対置構造を置くのは不誠実ではないか。自身でもリアリティを感じられない。だから、壊れていく人間、人間の不確かさを、介護を通してきちんと小説にとりこんでおきたかったんです。『プロトコル・オブ・ヒューマニティ』は父と子の話ですが、父親の護堂森は中編版にいませんでした。中編版と長編場では、話の構造がもう根本から違うんです。

――親子関係の前にまず恒明のAI義肢の話がありますが、それは中編の時点からあったんですか。

長谷:実はつい最近まであったと思ってたんですが、インタビューのお話いただくようになって、本当にそうだったか不安になってきて、改めて確認してみたら、中編版で恒明はAI義肢ではありませんでした。なんだかすみません。中編版では、義肢なのは他の人物でした。

――AI義肢は人間の安全性を保つように動こうとするのに、ダンサーは安全性に反する動きもしようとするから、そこに矛盾が生じるのが興味深かったです。

長谷:知能というものは2つ存在すれば必ずコンフリクト(葛藤)が起きるので、そこはきちんと書いておきたかった。コンフリクトを起こしながら、ロボットと一体となってダンスを築いていくのが、もともとの中編の筋立てでした。でも、ダンスの動きは日常の動きではなく、異化されたものであることへの意識が中編版では弱く、よく書けていなかった。ダンスのなにが人を惹きつけるのか、表現されたものはどう特別さを獲得するのか、自分なりの言語化が深められていなかった。長編ではそこをなんとか達成しつつ、人間性にどう迫っていくかを考えました。

不自由がまだ克服されていない未来を描く

――帯に「ファーストコンタクト」というSF的な用語が書かれています。AI義肢、ロボット、認知症になった父がそれぞれ、主人公の前にある種の異文明、異種族として現れるという意味かと思いますが、読んでいくとダンスにおける「コンタクト・インプロヴィゼーション」(パートナーと身体の接触を続けたままの即興パフォーマンス)が出てきてストーリー展開の核になっていますね。

長谷:もともと中編版を書く際、ロボットと人間が支えあうシーンを作りたいと大橋さんに相談した時、コンタクト・インプロヴィゼーションというものがあると教えてもらいました。ただ、人間の体重を支えるほどのパワーがあるロボットという想定に、大橋さんのほうもあんまりピンときていない雰囲気だと感じたことで、自分の感覚も反応して、コンタクト・インプロヴィゼーションを中編版に使うことはしませんでした。その頃はPepperを見ながら舞台と小説を考えていたので、その性能では人間を支えたりなんてできないから、現実感がなかったんです。

 現在ならボストン・ダイナミクスの人型ロボット・Atlasとかであれば人間を支えられるでしょう。でも、僕はPepperみたいな人間の近くで扱われているだろうロボットの方を意識していたので、コンタクト・インプロヴィゼーション自体は面白いし長編版で使いたいけど、書くならそのパートナーはロボットではなく父親になるなと、早めに決めていました。コンタクト・インプロヴィゼーションは公演のためのダンスというより、五感を通して自分や相手の身体性を知ったり、身体同士の関係性を体験するためのスタディみたいな感じですから。父と子がお互いを知るためのスタディというようなことを最初に考え、実際に小説を書いているうちにこの流れだと、ダンスに人生をかけた二人が踊らなければおかしいと思って、今ある形にリアルタイムで変化していったんです。

 逆にロボットと人間が踊る公演のほうは、どういうプログラムにしようと物語を描きながら考えて、いろいろ前フリをしながら進めていきました。父と子のダンスのライブ感とは対照的に見えたと思います。人間同士のダンスと、ロボットと人間のダンスではそうするのが正しい気がして、書き方自体を変えたんです。ロボットと人間のダンスに関しては、ある程度の段取りとルールが必要というのが、今のところの互いの距離であり、コンタクトのプロトコルなのかなと思いました。

――小説にAIやロボットが登場する場合、人間に似た形をしたキャラクターであることが多いでしょう。それに対し『プロトコル・オブ・ヒューマニティ』では人間と人型ロボットがダンス公演を行うわけですが、ロボットがキャラクターとして活躍するわけではありませんし、AI義肢のほか、舞台上のロボットとして人型ではないロボットアームが登場して大きな役割を果たします。

長谷:書いている最中も書き終わった時も、編集担当の塩澤快浩さんにこれはSF小説として成立していますかと、何度も聞いたのを覚えています。この小説は、リアリティラインを現実世界に近いところにおいて、大きな飛躍はしていない。だから、SF作家として書いていて怖い小説ではありました。2022年からそのまま延長した28年後の2050年なので、人間型のロボットより、意図して抑えて義肢やロボットアームが中心になって出てくる。特殊な場所を除いて、生活のなかに人型ロボットが入って来るには、2050年はまだ早いと思いました。

 子どもが父の紙おむつを始末しなければならない、父の風呂の見守りをしなければいけない、そういった現在存在する不自由がまだ克服されていない未来である方が、この小説にはいいリアリティラインだと考え、それを守るためにあえてそうしました。SF小説としてもっと飛躍があるべきとおしかりを受ける可能性があるとは思いましたが、この小説で争点にしなければいけないテーマ、情感、ドラマのためにはこれがベストだと思ったら、自然とこの形になった。

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