「2050年に30歳以下で年収200万円以下は普通にありえる」 近未来SF『プロトコル・オブ・ヒューマニティ』のリアリティライン

長谷敏司『プロトコル・オブ・ヒューマニティ』を語る

今だからこその解像度で書けた世界

――小説は2050年の時代設定で社会の技術水準の平均値は上がっています。自動運転は今より普及しているけれど、自動運転をしなかったために事故を起こす皮肉な展開もある。その未来では、今と同様の経済的な問題が依然として存在し、低収入の人は高度な技術サービスを受けられない。そこがとてもリアルです。

長谷:人工知能学会の倫理委員会やSFプロトタイピング(SF的発想でプロトタイプ=未来の試作品を想像で作り、事業に活かそうとする手法)に関わった経験で、政府やシンクタンクが未来をどう設計しようとしているか、関連の公表資料をみる機会が増えていたんです。それによると経済的に豊かなところへのケアは進むけど、例えば今の年収300万円以下の1人暮らしみたいな層に未来の恩恵がどの程度入ってくるかといったら、彼らを潤すだけのリソースは日本に存在しないと考えた。そのことを知らずにポジティブな2050年を書くのはありだと思いますが、知っていてポジティブに書くのは不誠実だと感じました。

 未来の話は、僕らSF作家も、年収がどのくらいの人なのか曖昧に書いていることが多いんですよ。せちがらい話ばかり書いてると、SFファンのかたの期待を裏切ることになるので。たとえば、この物語の主人公である恒明のポジションだと、年収200万円以下かなと感じるし、たぶんこれくらいの生活のはずだなという手触りも、常識的感覚としては作家側もわかってるわけです。であっても、未来の物語だから、読んでもらう人に夢を持ってもらうために年収1000万円、あるいは最低でも年収500万円以上の世帯の環境のように描いてしまってきた。でも、それだと、可処分所得が全然違う暮らしの話になってしまう。SF作家として意見を求められたり、SFプロトタイピングみたいなことに関わったりするまでは、そんなことを意識せずにすんでいました。けれど、ステークホルダーが考えている社会の未来設計をいろいろ知ってしまったために、その体験した未来像のズレみたいなものを無視していいのか、問題を感じてきてしまった。気にならない人が気にしない小説を書くのは適切だろうけど、問題意識を持っている人は書いた方がいいだろうと感じました。気になる人が書かなかったら誰も書かないと考え、そのために主人公の護堂恒明くんは、SFとしては珍しい年収200万円以下の生活というリアリティラインで創作しました。

 2050年に30歳以下で年収200万円以下は普通にありえるし、20代の30%以上がそうかもしれないと予想していますし、今回はそこにフォーカスした。この小説の場合、年収は、自ら起業してダンスカンパニーを主宰し恒明を招く谷口裕五が1000万円くらい、AI義肢のエンジニアの望月利夫が700万円から800万円、ロボットの開発プロジェクトのリーダーである成海絵梨子が500万円と安めですが仕事は好き勝手やれて休みも多い、恒明と交際する川上永遠子も定職についていて400万円程度で貯金もしてるので余裕があると想定していました。

――現在、人間の身体的負担を軽減するためパワードスーツを開発する動きがありますが、作中の未来で主人公が行う父の介護をロボットや高度技術が助けるようなことはありませんね。

長谷:谷口や成海にとって人型ロボットはそんなに遠いものではないけど、恒明くんの近くには入ってこない。2016年の公演の時、呑み会などでダンサーたちを見ていましたが、ダンスだけでは食えずバイトする若者ばかりでした。低収入の若い芸術家の世界は2050年にもあると思いますし、それをキラキラしたものに描くのは違うと思いました。僕も最初の小説2作では印税を前借りしたりしましたし、20代のクリエイターの大半はお金を持っているはずがない。可能な限り切りつめようとするのがリアリティだし、恒明くんは若いから介護をするにしてもパワードスーツを着ることにならない。もし彼が、40代で怪我をしたのなら着たかもしれませんが。恒明くんの可処分所得の使い方だと、自分では買わずに、谷口から端末を貸してもらったりする方が自然かなととらえていました。

 こういうリアリティラインの気にしかたはSFとしては珍しいかもしれませんが、ロボットとの生活がリアリティをもって感じられるようになった今だからこその解像度で書けた世界ではないかと、僕は考えています。

――ロボットやAIが人間の形をしていることは、どれくらい重要なことであり続けるのでしょうか。

長谷:僕個人としては、人間とコミュニケーションを行う場では、人間の形をしていることは非常に重要だと思います。人間の形をしていないもの、例えばSiriは画面に人間の形は映さないけれど、音声は完全に人間の形をしています。コストが見あわないとか用途に対し合理的でないといった理由で人間以外の形をとることはあるかもしれないですが、コストさえ見あうなら人間のインターフェイスは人間型をしているほうが自然でしょう。やっぱりSiri的なコンシェルジュサービスを受けたとして、それが人間以外のかたちだと、受け入れるのには精神的に越えないといけないものがある。最も広い層に向けて精神的コストを気にかけずにすむようにするのを目指すと、自ずと人間の形や擬人化に収束すると思います。

――ダンスと認知症をモチーフにしたこの小説では、身体と知能の問題がクローズアップされますが、それらについて長編化ではどのように考えたんですか。

長谷:『プロトコル・オブ・ヒューマニティ』というタイトルですけど、中編版ではどんなプロトコルが走っているか、中身をきちんと考えられていませんでした。なので、なんとなく伝わるのではなくどういう筋道で伝わるかを考えたのが長編版への大きな変更点です。そこで、速度と距離ということを考えるようになった。

 どうしてもロボットですから、数値しか理解しないと思えた。今のAIでも、情報を加工する自由度を考えると、中心は数値です。今のAIの発展を踏まえると動画としてダンサーの動きをとりこんでそれに対しAIが振りを考え、ロボットの身体へ出力する形で人間もロボットも踊ることは近い将来、可能になる。ロボットを舞台上に置いて、人間が踊るのに対し、なにがしかの問いかけやアンサーをしているように感じさせたり、ある程度似た動きをするロボットを作ることは可能だと思います。ただ、そうすることは、人間側と同じ価値をロボットが作っているといえるのか。ロボットの能力がここまで上がったというデモにはなるとしても、人間とロボットの協働だといえるかは相当怪しい。

 人間とロボットが本当に一つの価値を求めて仕事をするためには、互いがわかる指標で互いに動くことが必要ではないか。そうでないと出力されるものに対し、別の知能だからこそ、解釈が協働と言い難いほど拡散してしまう。特にAIの解釈は人間から見て意味の理解かと考えると怪しいし、かといって無理矢理、人間と同じような理解をさせたとして、そのロボットはほぼ人間なのだから自然な形ではない。AIをAIとして、効率的な計算をする知能として尊重しつつ、人間と同じ価値を共有するために明確な指標が必要だろう。そのための理解可能な指標と考えたのが、速度と距離だったんです。

 AIの発達は目覚ましいですけど、少なくとも今の段階では、システムや仕事の立てつけは、やはり人間がハンドリングしなければいけない。

――本の帯に「10年ぶりの最高傑作」とあります。つまり『BEATLESS』から10年ということですが、今までと違う段階のものを書けたという手応えはありますか。

長谷:自分のなかで今書けるものを全部書いた手応えがあります。題材が僕自身の人生に近くてこの小説の価値や、よかったこと、悪かったことがまだ完全に見えてはいませんが、自分がやるべき仕事は果たせたと思います。

――この作品は現実に近いリアリティラインだったわけですが、今後は。

長谷:次の作品がもっと違うリアリティラインがふさわしい題材ならばそちらへ進むし、今回くらいのリアリティラインを掘り進めましょうという依頼があればそちらで臨むかもしれません。ただ、今回書いてよかったのは、このくらいのリアリティラインでSFを書いてもいいんだなと思えたこと。それが収穫でした。この小説を書いている最中もクライマックスから最後まで書きあげた時も、自分なりにやるだけやったけど、本当にこれはSFとして大丈夫なのかと首をひねっていました。そこを、いいといっていただけた。「最高傑作」云々はともかく、ダンスを描く、人間性を描くという目的やテーマ、やりたかったことに対してベストをつくせた作品だと思います。

■書籍情報
『プロトコル・オブ・ヒューマニティ』
長谷 敏司 著
価格:¥2,090
発売日:10月18日
出版社:早川書房

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