「僕たちは音楽業界に革命を起こした」 アルファレコード設立者・川添象郎が振り返るプロデューサー人生

川添象郎が振り返るプロデューサー人生

 昨今、突如として世界的に聴かれるようになった「シティポップ」。なぜ、この音楽は生まれたのか。インターネット以前に生まれたこの音楽について、当事者によって語られる機会は少ない。

 プロデューサー・川添象郎が生い立ちから、現在までを振り返った自伝『象の記憶 日本のポップ音楽で世界に衝撃を与えたプロデューサー 』は、その貴重な瞬間を描いている。村井邦彦と設立したアルファレコード、そこでプロデュースしてきた荒井由実やYMOといった、錚々たるアーティストたち。この本は日本の音楽の歴史を繋ぐ上でも大事な一冊となるだろう。

 今回はこの著書をもとに、より深く川添氏から話を聞いた。まだDAWなどの機材もインターネットもない時代、彼はどのように「シティポップ」やそれに続く音楽を制作してきたのか。ぜひ自伝とともに「なぜ今こうなっているのか?」を考える材料にしてほしい。(小池直也)

アルファレコードの誕生

川添象郎『象の記憶 日本のポップ音楽で世界に衝撃を与えたプロデューサー 』(DU BOOKS)

――ご自身の半生を描いた壮大な著書となりましたが、仕上がりを読んだ感想はいかがでしたか。

川添:もともと雑誌『団塊パンチ』で連載していたものなんですが、廃刊になってしまったので中断していたんですよ。7、8年くらい経ってから息子に「ちゃんと本にした方がいい」と言われて書きました。ですから、ここまで10年くらいかかりました。うまくまとめていただけて嬉しいです。

――当時の思い出を鮮明に覚えていらっしゃるんだなと思いました。

川添:年寄りは遠い昔のことは割と覚えているんですよ。近い過去は全然ダメ。昨日食べたものは思い出せません(笑)。

――本を開くと、加賀まりこ、細野晴臣、松任谷由実、そうそうたる方々がコメントを寄せています。今も関係が続いているんですね。

川添:一緒に音楽を作ってきた同士で、親交は50年くらい続いてます。僕たちが音楽を作り始めた頃は、みんな25歳くらい。若くて無名のミュージシャンでしたが、やっぱり優秀だったんですね。今や大御所になってしまいました。僕と村井邦彦君が「この人たち優秀だな」と思って、彼らと始めたのがアルファレコードでした。

 そもそもは「マッシュルームレコード」という日本初のインディーズレーベルを作ったところから始まります。「歌謡曲はダサくて聴いてられないな」と思って、何かカッコいい音楽を作ろうとしたんですね。メンバーはミッキー・カーチスや内田裕也、京都のプロデューサー・木村秀樹。ミッキーの当時の奥さんが書いた、真っ赤な毒々しいキノコの絵を見て「カッコいいから、これをレーベルの名前にしよう」と。でも誰もお金がなかった。そこに村井君が来て「コロンビアに掛け合って制作費を持って来る」と。

 そうしたら、あっという間に数千万を持ってきて(笑)。それで始まったのがマッシュルーム・レーベル。最初に作ったのは成田賢や小坂忠のレコードでしたね。ふたりとも歌が上手くて、僕がプロデュースしていたロック・ミュージカル「ヘアー」(1969年)のキャストだったんです。マッシュルームの始まりのアーティストは、そのキャストばかりですよ。

 でも僕たちの作った音楽はカッコいいんだけど、日本の主流じゃないからほとんど売れませんでした。それから堀内護、日高富明、大野真澄によるグループ・ガロのレコードを作ったところで、制作費が底をついたんです。「もう会社潰れるね」と言っていたら、彼らの「学生街の喫茶店」がめちゃくちゃヒットしました。土俵際で寄り切られる寸前からの逆転うっちゃりみたいな(笑)。100万枚以上は売れましたね。そのインディーズレーベルが村井さんの音楽出版社・アルファミュージックのなかに入っていて、それを母体にしてアルファレコードが生まれるんです。

――川添さんが関わった当時「ニューミュージック」と呼ばれた作品群のいくつかは、今日「シティポップ」として世界中で聴かれています。それについてはどう思われますか?

川添:自分で言うのもなんだけど、一生懸命作ったし、クオリティも高かったと思います。僕たちセンスがいいからね(笑)。グローバルに聴いてもらえているのは嬉しいですよ。やってきた甲斐があるというか。あとやっぱり、あれはLPで聴いた方がいいですよ。全然CDと音質が違いますから。

――サウンドのこだわりについても、もう少し詳しく教えてください。

川添:村井君が作った、当時としては最先端のスタジオとして通称「スタジオA」があったんです。マルチチャンネルで丁寧にトラックダウンしました。当時は24チャンネルかな。今はDAWの時代でいくらでも増やせるけど、あの頃にはそんな機材はありませんでした。それぞれの楽器を録音できるから、音の分離がいいんですよね。ステレオ効果も発揮できますし。

 違う機材を繋ぎ、36チャンネルにしてミックスダウンしたこともありました。今はデジタルでプログラミングできますが、当時はリアルタイムでミックスするしかなかったので、それだとエンジニアひとりでは手が足りないんですよ。だからミュージシャンが寄ってたかって「お前はここからここまでのチャンネルね」と複数人で作業していました。最後のところで誰かがミスると最初からやり直し。そんなとき「ドジ野郎!」とみんなでいいながらやってました(笑)。

 僕たちは音楽業界に革命を起こしたと思っています。例えばアーティストの人選とか、レコーディングの方法。ミュージシャンのセッションで制作していくなんて、当時は誰も考えたことがないと思います。分業化されていて、作曲家/作詞家/歌手/演奏/編曲家が「せーの」で録音するしか方法しかなかった。今は当たり前のやり方かもしれませんが、そんな変化を生み出したのは僕らでした。

――当時の仕事で一番手ごたえを感じた作品は何でしょう?

川添:ユーミン(松任谷由実)かな。荒井由実という16歳くらいの女の子が例の「ヘアー」をきっかけにフラフラやってきて、すごい良い曲を書くんですよね。村井君がその子に歌わせようということで、アルバム『ひこうき雲』を作ったんです。次に僕がプロデュースした『MISSLIM』、そして『COBALT HOUR』の3部作は、日本のある時代を代表する音楽だと思います。

 それらの作品もティン・パン・アレーの細野晴臣、鈴木茂、松任谷正隆、佐藤博、林立夫という優れた若手ミュージシャンが集まって、スタジオでセッションしながらレコーディングしました。でも2ndアルバムまでは、当初1万枚ほどしか売れませんでした。リスナーに音楽の良さが浸透していかなかったんですね。なぜなら、僕たちがこだわった分離のいいサウンドは、当時の4チャンネル程のテレビ局のミキサーやエンジニアでは再現できなかったから。

――加えて、当時のテレビのスピーカー自体のスペックを考えると、こだわりのサウンドは理解されづらかったのだと思います。

川添:とはいえ、テレビに出せばプロモーションにはなる。そこでドラマのプロデューサーに「主題歌の予算ってどれくらい?」と聞いたんです。そうしたら「せいぜい15万円くらい」と情けないことを言うんですよ(笑)。だから彼に「それなら150万円くらいかけて作った音楽があるから、これをテーマソングに使わない? タダでいいよ」と。その代わりに最初と最後に必ず流して「荒井由実」とクレジットを入れてくれと頼んだんですよ。

 それにOKが出て、TBSのドラマ『家庭の秘密』の主題歌「あの日にかえりたい」で火が付いちゃった。そのシングルヒットで前2作もすごい勢いで売れて、あれよあれよという間に大スター。いわゆるタイアップでのプロモーションを僕らが最初にやったんです。

――それまではドラマの主題歌はなかったんですか?

川添:テーマ曲はありましたが、それでレコードを売ろうという発想はありませんでした。テレビ局系の音楽出版社もありませんでした。タイアップでヒット曲が生まれることに気が付いたTBSが日音を作って、自分たちで音楽の出版とプロモーションを始めたんですよ。

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