「僕たちは音楽業界に革命を起こした」 アルファレコード設立者・川添象郎が振り返るプロデューサー人生
YMOのアメリカ公演
――『象の記憶』にはYMOのアメリカ公演のことが、社運をかけたプロジェクトだったと書かれています。そこで現地のステージマネージャーに1000ドルを渡して、音を大きくさせたという記述は貴重なお話だと思いました。
川添:アメリカのロック・コンサートだと、メインアクトの音を派手に聴かせるためにオープニングアクトの音はしょぼくさせるんですよ。でもYMOはインストゥルメンタルだし、それをやられたらたまらないじゃない。だから舞台監督にチップを渡して、音をしっかり出させたんです(笑)。
――YMOがテクノやヒップホップなど世界に与えた音楽的影響を考えると、川添さんの行動がなかったら、今の音楽シーンの形は変わってたかもしれません。
川添:とはいえ、一番偉いのはYMOですよ。彼らが世界で初めてのユニークなテクノポップを作りだしたことが全ての始まりですから。ただ、それをプロモーションして広めた僕たちも頑張ったと思いますね。でも最初に聴いた時は「ひどい音楽だな」という印象でした(笑)。「ピュンピュン」という電子音が続いて、だんだん調子がよくなるけど、普通のリスナーはそこまで集中力が持たない。
そもそもYMOのプロジェクトは村井君が「細野君がアルファレコードに多大な貢献をしているから、彼の好きな音楽を勝手に作ってもらおうよ」と提案したところから始まったんです。そうしたら細野さんが「イエロー・マジック・オーケストラという構想がある」と。ニューミュージックのなかで重鎮の彼が「オーケストラ」を作るというから、僕は仲間をたくさん集めるのかなと思っていました。
おまかせしていたら、村井君が憂鬱そうな声で「細野君のアルバムができたけど聴いてくれる?」と電話がかかってきて、一緒に聴いたんです。そしたら「ピュンピュン」だったんですね。「こんなの売りようがないよね」と言うので、僕は「おまえが勝手に作らせたんだろう」と(笑)。
それからプロモーションで色々なところに持っていたんです。案の定、最初は誰も相手にしてくれませんでした。ラジオ局は細野さんの名前でたまに流してくれましたが、テレビに出さないとプロモーションにならない。でもTBSのあるプロデューサーは「3人とも特別いい男じゃないし、歌もないし、何を撮ったらいいんだ?」と冷たかったですね。結局2000枚くらいは売れましたけど、それからは全然ダメでした。
そのあと1978年に「FUSION FESTIVAL'78 [WE BELIEVE IN MUSIC]」(YMOが出演したのは2日目の「-Fusion Instrumentel day-Ⅱ」〈細野晴臣&イエロー・マジックVSニール・ラーセン〉)というイベントを新宿紀伊國屋ホールで開催したんです。そこにニール・ラーセンというキーボードプレイヤーが出演するということになり、マイケル・フランクスやジョージ・ベンソンのプロデューサーでもあるトミー・リピューマが来日するというので、YMOも売り込んでみようかと。
僕はトミーにシャンパンを死ぬほど飲ませて、ほぼ酩酊状態で現地に連れていったんです。そうしたら彼が「面白い!」と言ってノリノリ。「A&Mレコードで出そうかな」と言っているので、すぐに村井君にそれを伝えました。それで、鉄は熱いうちに打てと、村井君はA&Mの副会長ジェリー・モスに「トミーが言ってるから出してね」と電話したんですよ。ジェリーも「よくわからないけど、トミーが言うなら」という感じだったようです。
ただ帰国したトミーがシラフでYMOを聴いて、安請負してしまったと悩んでたみたいですね(笑)。でもオフィスで流していたところに、通りかかったThe Tubesのマネージャーが「何これ? 面白い」と。それで夏の野外コンサートにゲストとして呼べないかという話になったんです。村井君に相談したら「これはもう、やっちゃおう」という話になって、どこからかお金を持ってきて。それで「象ちゃんが一緒に行ってくれたら安心だ」とか言うんですよ。でも、こっちは内心、ハラハラものでしたよ(笑)。
――なるほど。
川添:あと当時、アメリカで日本人は制服を着ているイメージがあったんです。向こうでは日本人のアイデンティティも出さなきゃいけないので、アメリカ人の持つアジア人のイメージを増幅するというアイデアでした。それであの赤い人民服をファッションセンスのいい高橋幸宏さんに作ってもらいました。サポートメンバーの渡辺香津美と矢野顕子は黒い服でしたね。
「日本人は無表情で不愛想で有名だから、拍手が来ても知らんぷりして怒涛の如く演奏を続けちゃえ」とも言いました。メンバーは「それは楽でいいですね」という反応で(笑)。あとは派手なコンピュータ機材を舞台の上に乗せて「コンピュータ」で作った音楽」というのを強調させたんです。電飾も付けてギラギラさせて。それについては細野さんも同じように考えていたみたいですが。
<日本人、不愛想、制服、コンピュータ>というイメージを舞台上で演出したんです。そうしたら1曲目でスタンディングオベーションになったんですよ。思えば、トミーが東京で半分酔っぱらいながら興奮してたように、LAの夏の野外なんていったら観客の8割9割は酔っぱらってるか、ハイになってるかどちらかなんですよね(笑)。
それで現地でウケているのを見て、2日目か3日目に撮影クルーを入れて記録して日本に送ったら、村井君がすかさずそれをNHKのニュースに売り込んだ。すると15分くらいで特集されたんですよ。視聴率22パーセントだから、2200万人が見たんですね。ウルトラCですよ。
――それがなかったらYMOが世界中の人々に発見されることはなかったかもしれませんね。
川添:そうですね。ただ、作っている細野君にしろ、関わった僕にしろ「世界の音楽を変える」なんてことは思ってはいませんでした。日本がコンピュータテクノロジーで世界の代表と言われていた時代に、ど真ん中のコンピュータ音楽を出す。それがよかったんですね。