『さよなら絵梨』から『チェンソーマン』へーー藤本タツキは“過酷な現実”を吹き飛ばせるか?

『さよなら絵梨』から『チェンソーマン』へ

 藤本タツキの漫画『さよなら絵梨』(集英社)が発売された。「少年ジャンプ+」に200ページの長編読み切りとして一挙掲載された本作は、配信されるとすぐに関連ワードがTwitterのトレンドに入り、前作『ルックバック』に続く話題となった。

 物語は主人公の優太が病気の母親を撮影する場面から始まり、やがて謎の少女・絵梨との出会いが描かれるのだが、POVを用いたフェイクドキュメンタリーの手法を漫画に落とし込んでいるのが、本作最大の特徴だ。

 POV(point of view)とは「視点」という意味で、カメラマンが撮影している映像という体で物語が進めていく映像手法のこと。

 「さよなら絵梨」というタイトルが映っているスマートフォンを持っているカットから本作は始まる。スマホの画面を彷彿とさせる横長の映像が、本作のPOVとなっており、カメラを動かすと映像がブレる様子まで再現されている。劇中のカットの多くは優太が撮影している映像なので、一人称視点の漫画とも言えるだろう。

 漫画としては、横長のコマが4つ並んでいる画面構成が基調となっており、見せ場によって1ページ・2コマ、1ページ・1コマ、2ページの見開きに変化するという定型化されたコマ割りとなっている。同じコマ割りが続くため、漫画としてはやや冗長に感じるが、映画の長回しのような時間の流れを、漫画の中で再現したかったのだろう。

 また、POVは一人称の映像ゆえに「どこまでが現実で、どこまでがフィクションかわからない」という虚実の混濁が生じる。これは小説や映画における「信用できない語り手」という技法だが、この混濁の中から浮かび上がってくるのが、藤本タツキの漫画家としての現在地だ。

※以下、ネタバレあり

 死の淵にある母親を撮ることができずに病院から優太が逃げ出すと、病院は爆発する。その後、舞台は学校の体育館に変わり、これまでの物語は、文化祭で上映している優太の映画「デッドエクスプローションマザー」だったことがわかる。

 「母親の死」を冒涜するような優太の映画は、同級生や教師からクソ映画と批判される。しかし、ただ一人「面白かった」と言ってくれた絵梨に背中を押された優太は、新たに絵梨を主演にした映画を撮ろうとする。

 当初は絵梨の正体が吸血鬼だったという映画を撮ろうとした優太だったが、やがて絵梨が余命わずかだとわかったことで、難病モノのラブストーリーへと変わっていく。 

 絵梨の死後、文化祭で上映した「さよなら絵梨」は泣ける映画として絶賛される。しかし優太はこの映画には「何かが足りない」と感じ、残された絵梨の動画を編集し続けていた。

 優太の紆余曲折は、藤本タツキの変遷と重なるものがある。

 『さよなら絵梨』は高い評価を受ける一方、複雑で難解な作品だったため、困惑を持って受け入れられた作品だった。絵梨の死で終われば、本作は泣けるクリエイターの物語として『ルックバック』のように多くの読者から受け入れられたのかもしれない。しかし、藤本タツキは『ルックバック』の先へと進もうとした。

 やがて、優太は社会人となり、結婚して家族を持つが、突然の交通事故で妻と娘を亡くしてしまう。生きる気力をなくした優太は、かつて絵梨と過ごした思い出の廃墟へと向かい自殺しようとする。だが、そこには昔のままの姿の絵梨がいた。実は絵梨の正体は吸血鬼で、脳が死ぬと記憶を失い、肉体が再生する不老不死の存在だった。絵梨と再会したことで、自分の映画に何が足りなかったかを理解した優太は、絵梨のいた廃墟を爆破して、物語は終わる。

 酷評された「爆発オチ」を再び持ってくるラストカットには、藤本タツキの決意が伺える。

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