『チェンソーマン』第二部、ヒーロー不在も際立つ“新たな悪役”の存在感 第1話から藤本タツキの異才を読む
※本稿には『チェンソーマン』(藤本タツキ/集英社)第一部および第二部の内容について触れている箇所がございます。同作を未読の方はご注意ください。(筆者)
2022年7月13日、集英社の漫画アプリ「少年ジャンプ+(プラス)」にて、藤本タツキのヒット作『チェンソーマン』第二部の連載がスタートした。また、同作は、MAPPA制作によるTVアニメ版も年内に放送開始予定であり、今後もさまざまなかたちで注目を集めることだろう。
悪役がいなければヒーローは存在しない
さて、さっそくその『チェンソーマン』第二部の1話目(第98話)を読んでみた。白と黒のコントラストが強い絵柄は凄みを増し、既存の作品のオマージュとセルフ・パロディを散りばめた豊かな間テクスト性は健在、また、バトルシーンにおける映画的なカット割りについても、もはや藤本タツキの独壇場といっていいくらいの切れの良さがあるが、なんといっても注目すべきは、初回における“主人公(ヒーロー)の不在”ではないだろうか。
そう、この第98話は、第二部という新たな物語の始まりの回でありながら、主人公――すなわち「チェンソーマン」ことデンジ(+ポチタ)は登場しない。
では何が描かれているのかといえば、それは、“悪役の誕生”である。これには、主人公の活躍を期待していたファンはさぞかし肩透かしを食らったことだろうが、実は、ヒーロー物の展開としては、あながち間違ってはいない、ともいえる。なぜならば、魅力的な悪役との対比でしか、魅力的なヒーロー(正義)を描くことなどできないからだ。
ドイツ文学者の種村季弘は、「悪の娯しみ」というエッセイの中でこんなことを書いている。
なまなましく、いきいきとして、極彩色に塗りたくられた悪にくらべて、この善はまた何と抽象的でしらじらしく、退屈なことであろうか。
〈中略〉
すでにいったように、善は抽象的な原理だから、善そのものを書くことは難しい。強いて書こうとすれば、しらじらしい教訓やお説教を枚挙することに終ってしまう。だから曰く言い難い善を書くには、地獄絵を見せながらの説法を語らなくてはならない。目にもあざとい具体的な悪を次々に並べ立てておいて、これらのおぞましい悪ではないもの、それこそが善だ、と言い、これらは悪だ、だからこういうことはやってはいけない、といえば、大方の読者は納得してくれるだろうという胸算用である。
――「悪の娯しみ」種村季弘(『書国探検記』ちくま学芸文庫所収)より
そう、どんな物語でも、いきなり何もないところに、「抽象的な」“善”が登場することはないといっていいだろう。まずは、「具体的」で「おぞましい」悪が現われ、それを懲らしめる存在として、“ヒーロー”が生み出されるのだ。
ちなみに、『チェンソーマン』第二部で誕生した新たな敵(悪役)は、ある孤独な女子高生が死の間際に契約した「戦争の悪魔」なのだが、これがなんというか、美しい少女の姿と禍々しい悪魔の心を持った強烈なキャラクターである。つまり、怪物のような姿と正義の心を持ったチェンソーマンとは対極の存在であり、これから宿敵同士になるであろう両者のキアロスクーロ(明暗対比)にも注目したい。
『チェンソーマン』第二部と『ヨハネの黙示録』の関係は?
注目といえば、第98話の最後の1コマで、その「戦争の悪魔」が非常に気になるセリフをいっている。
待ってろ
チェンソーマン…!
核兵器を
吐き出させてやる…!
――『チェンソーマン』第98話・藤本タツキ(集英社)より
第一部を既読の方はご存じかと思うが、本作には、チェンソーマンが悪魔を食べると、その名前が表わしている存在自体もこの世から消えてしまう、という設定がある。たとえば、「ナチス」「第二次世界大戦」「エイズ」などがすでにチェンソーマンによってこの世から(あるいは人々の記憶から)消されており、「核兵器」もまた同様である(10巻所収・第84話参照)。
なお、第一部の事実上のラスボスである「支配の悪魔」ことマキマは、例外的にそうした“消された存在”の名前だけは覚えていられたのだが、同じように、存在しないはずの「核兵器」という単語とその意味を未だに知っている「戦争の悪魔」もまた、彼女と同格の存在ということだろうか。
となれば、必然的に今回の敵の正体がぼんやりと浮かび上がってくるというものだ。それは、『ヨハネの黙示録』に記されている(地上の人間を殺すとされている)「4人の騎士」であろう。
『ヨハネの黙示録』によると、「4人の騎士」は、順に「支配」「戦争」「飢饉」「死」の役割を担っており、だとすれば、(すでに登場している「支配の悪魔」と「戦争の悪魔」の他に)あと2人、同格の騎士(=悪魔)がいるということになる。