『推し、燃ゆ』の宇佐見りんが描く、家族の独特な距離感ーー新作『くるまの娘』を読む
〈みんな傷ついているのだ、とかんこは言いたかった。みんな傷ついて、どうしようもないのだ。助けるなら全員を救ってくれ、丸ごと、救ってくれ。誰かを加害者に決めつけるなら、誰かがその役割を押し付けられるのなら、そんなものは助けでもなんでもない〉〈もつれ合いながら脱しようもがくさまを「依存」の一語で切り捨ててしまえる大人たちが、数多自立しているこの世をこそ、かんこは捨てたかった〉(※「自立している」に傍点)。
切実な訴えを前に、「離れる=正しい選択」とは断言できなくなる。とはいえ、かんこの家族観は取り返しのつかない事態へと繋がりそうな危うさもある。その是非を考えている内に彼女の苦悩が他人事とは思えなくなり、登場人物たちと旅を共にし、車に同乗しているような錯覚を起こす。すると、狭い車内に流れる家族の親密さや重苦しさといった空気がよりリアルに、濃厚に感じられるようになる。読者に作品との距離感を見失わせ物語に没入させる、こうした言葉と論理の迫力も、本書の読みどころの一つだ。
旅は群馬から戻っても終わることはない。かんこは文字通り「くるまの娘」となってある特殊な生活を送りながら、車で移動を続ける。そこにあるのは希望なのか絶望なのか、それとも空虚さしかないのか。結末にたどり着いてもなお、解釈を止められず車から降りられなくなる。