吉本ばなな『白河夜船』に書かれた平成の「先ぶれ」と昭和の「最後の響き」 その《短編的世界》を読み解く

吉本ばななと短編小説の問題

名著の力 第2回:福嶋亮大の吉本ばなな『白河夜船』

 「白河夜船」においても「人間というもの」は響きや影絵のように残っている。この響きは昼の社会ではかき消されてしまうので、ただ「夜の底」で聴きとられるしかない。語り手の「私」はなすすべもなく眠りに襲われ、自発性や能動性を失うことで、夜の底に沈んでゆく。

いつから眠りに身をまかせるようになってしまったのだろう。いつから抵抗を止めたのだろう……私が溌剌としていつもはっきり目覚めていたのはいつ頃なのだろう。それはあまりにはるかすぎて、太古のことのように思えた。

 夢を題材とした小説は無数にあるが、眠りを題材とした小説は希少である。眠りの特徴は「あらがえなさ」にある。つまり、吉本は自分の内側からやってくる力に、ただ身を委ねるしかない状態を描こうとしたのである。

 その力は、語り手を生ではなく死に近づける。眠りに囚われて「もしかしたら寝ている自分を外から見ると真っ白な骨なのではないか」と感じる主人公は、ポンコツのアンドロイドも同然である。「私はずっと自分の回路を三分の一くらいしか開かずにぼんやり働いていた」。しかし、この昼のポンコツぶりは、かえって夜の対幻想の「しびれるような心地」をきわだたせる。

他のもろもろの音が外側から聞こえるのに対して、彼からの電話はまるでヘッドホンをしている時のように頭の内側に快く響く。

この光るように孤独な闇の中に二人でひっそりいることの、じんとしびれるような心地から立ち上がれずにいるのだ。/そこが、夜の果てだ。

 こうして「孤独な闇の中」にひっそりと住まうものたち――語り手、亡くなった親友のしおり、語り手と不倫関係にある「彼」、彼の植物状態の妻――が、テレパシー的に心を通じあわせる。電話の会話が対面以上の奇妙な「近さ」を感じさせるように、テレコミュニケーションはときに互いの心の距離を最小化する(※)。吉本の描く「夜の底」は、まさにこの遠いがゆえに近いという逆説的なコミュニケーションの時空なのである。

 ただし、この「頭の内側」でなされるような夜のコミュニケーションは、必ずしも平和的なものではない。淋しさをどうしても打ち消すことのできない語り手は、眠りの手前で「彼」の妻(植物状態で長い「眠り」についている)とテレパシー的に交感しながら、やがてこの女性ではなく自分自身が「敵」であることに気づく。

敵は、きっと私だ。

薄れゆく意識の中で、そう確信した。眠りは真綿のように私をゆっくりとしめつけ、私の生気を吸いとっていった。ブラックアウト。

 つまり、「私」のいちばん近いところにいる何者かこそが「敵」なのだ。ここには一種の自家中毒を思わせるものがある。ここで重要なのは、社会からすべりおちた夜のなかでも、不気味な敵対性だけは残り続けることである。吉本はどのみち決着のつかない問題をくどくど解説する代わりに、その所在を短く暗示した。花火があがるなか「この世にあるすべての眠りが、等しく安らかでありますように」という祈りを捧げる末尾も、この不穏な暗示を打ち消すものではない……。

福嶋亮太『らせん状想像力: 平成デモクラシー文学論』(新潮社)

 今から見ると、「白河夜船」はその後の平成文学の「先ぶれ」のように思える。「私」の心がコントロール不能の炎症を起こし、現実のちょっとしたサインが主観的な妄想の引き金となって、やがてそれが客観的な現実を呑み込んでいく――これが平成文学のよくあるパターンである。自我の防壁が低いため、「私」はふつうの社会性を圧倒するほどに神経過敏になってしまうのだ。そして、その妄想はしばしば、他者には理解できないような「敵」を呼び覚ましもするだろう(拙著『らせん状想像力』参照)。

 これらの要素はすべて「白河夜船」に潜在している。語り手の「私」は眠りをコントロールできない。この無抵抗の主観に、死をまとったものたちがテレパシー的に入り込んでくる。そして、夜の底にいる私は、私だけにしか分からない「敵」と出会うのである。その後の平成文学は、これらのモチーフを、より性的かつ暴力的に描き直したと言えるだろう。

 昭和と平成のはざまの時期に書かれた「白河夜船」は、ルカーチふうに言えば「もはやない」と「まだない」の双方にまたがっている。繰り返せば、その内容は《短編的世界》でなければ収容できない類のものである。もとより、短編小説は今でも書かれているし今後もそうだろうが、短編である必然性を備えた作品はいつでも稀である。それは、真の意味での「夜」を描いた作品が稀であることと同じである。

(※)考えてみれば、小説を読むということそのものがテレパシー的である。読者は何のゆかりもない作中人物に感情移入し、その心らしきものを読み取るのだから。18世紀のルソーの書簡体小説『新エロイーズ』は、読者が作中人物の感情の動きをまるでわがことのように感じてしまうというテレコミュニケーションの逆説を利用して、世紀のベストセラーとなった(ロバート・ダーントン『猫の大虐殺』参照)。吉本ばななは1990年の『N・P』で、小説を仲立ちとしたテレパシーないしシンパシーを扱っているが、それは実は近代小説の起源にまで遡るような古い問題である。

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