成婚できるかどうかは、親との関係性にかかっている? 『婚活迷子、お助けします。』第十話
婚活迷子、お助けします。 仲人・結城華音の縁結び手帳
橘ももの書き下ろし連載小説『婚活迷子、お助けします。 仲人・結城華音の縁結び手帳』は、結婚相談所「ブルーバード」に勤めるアラサーの仲人・結城華音が「どうしても結婚したい!」という会員たちを成婚まで導くリアル婚活小説だ。前回のラストから第十話は、小川志津子と田中幸次郎の2回目のデート模様かと思いきや、なんと志津子の母が乱入! ブルーバードに乗り込んできた。入会を内緒にしていた志津子だが、なぜバレてしまったのか。はたして、母の目的は?
第一話:婚活で大事なのは“自己演出”?
第二話:婚活のためにメイクや服装を変える必要はある?
第三話:成婚しやすい相手の年齢の計算式とは?
第四話:男性はプロフィール写真だけでお見合い相手を決める?
第五話:見合いとは、互いのバックボーンがわかった上で相性を見極める場
第六話:婚活がうまくいかないのは“減点制”で相手を判断してしまうから
第七話:結婚相談所で成婚退会できるのは約3割……必要な努力は?
第八話:婚活迷子に“プロレス”が教えてくれること
第九話:女性に“優しい”と言われる男性が結婚できない理由は?
正直申しまして、娘には不釣り合いの方だと思います
「ちょっとねーさん。やばいの来てるんですけど」
昼食を終えて事務所に戻ってくるのを、ビルの前で待ち構えていた高橋陽彩(ひいろ)の顔を見た途端、華音は思わず踵を返した。無表情で立ち去ろうとする華音を「ちょ、ちょ、ちょ、ねーさん!」と追いかけてくる陽彩は弟ではなくブルーバードの同僚なのだが、ひょろ長くて細い体躯に、薄くすいた前髪、地毛というには明るすぎる茶髪という風体は、ジャケットを羽織ると落ち着きを見せるどころか胡散くささを倍増させ、形のいい薄い唇で微笑まれると、堅気とは思えない危険な甘さを漂わせる。そんな彼に接客されると、みな一様に、神楽坂の結婚相談所ではなく歌舞伎町のホストクラブに迷い込んだのではないかと戸惑う顔を見せるのだが、それもそのはず、陽彩は2年前に所長の紀里谷が銀座で拾ってきた会員制クラブの元ボーイなのだった。
「だからねーさんはやめてってば。私までその筋の人みたいに見えるから」
腕をつかんだ手をやんわり払うと、陽彩は気にした様子もなく、にししと笑う。
「ねーさん、いかちぃっすもんね。黒ずくめだし、クールだし」
「仕事なんだからあたりまえでしょ」
「でもさー。黒子だから黒いスーツってちょっと安直すぎない? もう少し柔らかい服きても、会員さんの邪魔にはならないと思うけど」
「会員さま、ね」
「ちょっとくらい笑ったって、バチはあたらないと思うし」
「必要なときは笑ってるわよ」
「えー、だって俺の前じゃいつも仏頂面じゃん」
「それはあなたがたいていの場合、やかましくて鬱陶しいからでしょ」
「えー、ひでー」
払ったはずの手で今度は華音の手首をつかみ、駄々っ子のようにぶんぶんと振る。これで仕事ができなかったら紀里谷に直談判しているところだが、会員制クラブではときにホストよりも人気だったというだけあって、気配りはきくし距離のはかりかたが絶妙で、今のところ会員からクレームがきたことは一度もない。これで26歳なのだから、たいした処世術の持ち主だと思う。
「ところでねーさん、今日はランチなに食べてきたんすか? 俺は龍華の麻婆豆腐か、魚膳の定食かで悩んでるんすけど」
「そんなことより、なんかあったんじゃないの。やばいのって、なんのこと?」
「ああそうだそうだ、やだなあ、ねーさんが逃げるから忘れちゃったじゃないですか」
「人のせいにしない。で、なに。だれ」
陽彩がここにいるということは、紀里谷が相手をしているのだろう。ここ3カ月ほど、経験を積ませるという名目で(実際は紀里谷の負担を減らすために)、来客があればまず陽彩がひとりで応対していた。もちろん相性もあるけれど、その接客技術は華音から見てもたいしたもので、なんの不安もなく任せられるねと紀里谷とも話し合っていたばかりだ。
それがいま、追い出されて華音の出迎え役にされている。
ということはつまり、事務所にいるのは、陽彩では手に負えない相手ということで。
華音の警戒を見てとった陽彩は、肩をすくめてやや憐れむような笑みを――どんなときでもこの男はうっすらとした笑みを絶やさない――唇にのせた。
「大変だよ。志津子さんがお母さんと一緒に来てる」
その言葉を耳にした瞬間、くらりと目眩を感じて、華音は額に手をあてた。
「ですから、退会させていただきたいと申し上げているんです」
事務所の扉をあけると、ゼラニウムの穏やかな香りとともに、正反対のぎすぎすした声が漏れてきた。ただいま戻りました、と平静を装って入室すると、紀里谷と目があう。向かい合っている二人は後頭部しか見えないけれど、右でうなだれているのが志津子だから、隣で対照的に背筋をぴんと伸ばしている女性が母親だろう。華音のアドバイスで、かたい印象を与えるストレートの黒い長髪をふんわり巻くようになった志津子だけれど、うしろ姿だけで判断すれば、落ち着いたベージュのミディアムヘアを上品に巻いた母親のほうが若く溌溂として見える。
「結城さんも、ここに座って」
紀里谷にうながされて、華音は志津子たちの対向に移動すると、まずは母親に頭をさげた。
「結城華音です。志津子さんの担当をしております」
名刺をとりだそうとすると、結構です、と冷たくあしらわれて終わる。では、と腰かけると真正面に座る志津子が視界に入った。泣いているのかと心配になったけれど、感情の消えた瞳で空の一点を見つめているのがわかって、事態はいっそう深刻であることを悟る。
今日は田中幸次郎と1カ月以上ぶりに会っているはずなのに。以前連れていってもらった根津の定食屋ではやめの昼食をとり、上野まであるいて美術館に行くと言ってなかったか。今はまだ、13時を過ぎたところで、すべての予定を終わらせたにしては早すぎる。どうして。なんでこんなことに。華音は急く心を、気づかれないように深く息を吸うことでなだめた。感情的になっては、だめだ。
陽彩が言うところの無表情を保ったまま向き合った華音に、母親のほうもつとめて冷静に口を開く。
「小川志津子の母の、絢子です。娘がお世話になりました。ですが本日付で退会させていただこうとお話をしていたところなんです」
「それはまた……どうして……」
志津子の背後にいつも影がちらついているせいで、勝手に気の強い高圧的な女性を想像していた華音だったが、実際の絢子は風貌もしゃべりかたもおっとりしていて、一見すると控えめで楚々とした印象だ。けれど、薄いルージュの引かれた唇からこぼれる言葉に迷いはなく、有無を言わせぬ厳かさがあった。たぶんこの人も、どんなときでも微笑みを絶やさない。陽彩と同じ、だけど全然違う。
絢子は、ふうっと静かな息を吐いた。
「今日、たまたま娘が見合いのお相手と一緒にいるところに遭いました。……正直申しまして、娘には不釣り合いの方だと思います」
淡々と告げる絢子の隣で、志津子はじっと動かない。
「優しくていい人そうな方ではありましたけど、あとで娘に聞きましたら、共働きを希望されているというじゃないですか。最初から女性の稼ぎをあてにされている方は、ちょっと」
「確かに、今回の方では、志津子さんに専業主婦になっていただくのはむずかしいと思います。ただ、まじめな方なので貯蓄もしっかりされていて、たとえば出産を機に志津子さんがしばらくお仕事を休まれても問題ないと確認しています」
「それでもねえ、最初から奥さんを養うくらいの気概を見せていただけないっていうのはね」
「お母さまは、志津子さんに専業主婦になっていただきたいんですか?」
なにげなく、聞いたつもりだった。華音にも、それほどの他意はなかった。けれど瞬間、空気がぴりついて絢子の眉尻がきゅっとあがる。
「娘は通訳として、立派に仕事しているんですよ。それを男の都合で辞めさせるなんて、とんでもありません」
ええー……じゃあいいじゃん……。
とはもちろん、言えなかった。女性も仕事してあたりまえ、夫にしおらしく付き従うなんて時代遅れだ、と理解を示す反面、男性は女性より優れていたほうがいい、女性は家庭的であったほうが愛される、という相反する価値観を拭いきれない人は少なくない。なるほどね、と華音は思った。これは、陽彩の手に負える相手ではない。若くて、ちゃらついていて、真剣みの薄そうな男性を、この手の女性はいちばん信頼しない。それに、会員の親が出張ってきたときの心構えを、陽彩にはまだ教えていない。
――成婚できる人とできない人の違いっていろいろあるけど、親との関係っていうのがわりとネックになるケースが多いんだよねえ。
いつだったか、紀里谷はそうつぶやいて、珍しく物憂げな表情を浮かべていた。親の介入によって真剣交際していた相手と破局させられ、けっきょく成婚しないまま退会してしまった会員の話を、そのときに聞いた。それも、ひとりではない。女性も男性も、年齢も関係なく、紀里谷はうなだれて事務所を去る会員たちを、無力感とともに見送ってきたという。
たぶんその人たちは、いまの志津子のような表情を浮かべていたのだろう、と華音は思う。志津子は華音を見ようとはしない。紀里谷のことも、母親のことも。怒りも悲しみもないまま、ただ静かな諦めだけを瞳に浮かべている。
そのとき、
「志津子。顔をあげなさい。お世話になった方たちの前で、失礼でしょう」
と、絢子が小声でささやくのが聞こえた。はい、と答えて志津子はしゃんと背をのばす。……碌な男を紹介しないから退会するのだ、と暗に華音たちを責めた口で、今度は志津子を注意するために“お世話になった”などと言う。それは確かに礼儀として必要なことかもしれないが、華音の胸はひどく傷んだ。絢子の怒りは、いったいなんのために、どこへ向けられているのだろう。
口を一切開くまいと決めたらしい陽彩が、お茶のお代わりを運んでくる。絢子が手に取ったのを確認して、華音も、ほとんどしゃべっていないのにからからになった咽喉を潤した。……べつに、ブルーバードを退会することじたいは、どうでもいい。ここで成婚が決まらなくても、もっと気になる相談所が見つかったとか、華音が信用できないとか、志津子が志津子の理由で決めたのならば甘んじて受けいれる。けれど。
華音もすっと背筋を伸ばした。
たぶん、長い、午後になる。