TUBEをチーム一丸となり盛り上げたスタッフたちの奮闘 ぐあんばーる社長 菅原潤一氏とともに振り返る【評伝:伝説のA&Rマン 吉田敬 第6回】

評伝:伝説のA&Rマン 吉田敬 第6回

 今から十数年前、48歳という若さでこの世を去った“伝説のA&Rマン”吉田敬さん。吉田さんと長年様々なプロジェクトを共にしてきた黒岩利之氏が筆を執り、同氏の仕事ぶりを関係者への取材をもとに記録していく本連載。第6回となる今回は、TUBEの所属事務所ぐあんばーる社長、菅原潤一氏へのインタビューをお届けする。当時としては異例の全曲タイアップが実現したアルバム『Bravo!』に関するエピソードなどからは、周囲を巻き込みながらリリースを盛り上げた吉田さんならではのチーム運営・プロモーション手法が浮かび上がってくる。(編集部)

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TUBE誕生前夜からTプロジェクトに至るまで

 キャリア38年、常に時代のトップを走り続けるTUBE。2023年8月26日、通算34回目の横浜スタジアム公演『TUBE LIVE AROUND SPECIAL 2023 TUBE JAMBOREE』が開催され、今年の夏を締めくくった。

 そんなTUBEのデビューは敬さんがCBS・ソニーに入社した1985年までさかのぼる。

「吉田君の入社当時の印象は正直言って、全くないんですよ」

 TUBEの所属事務所、ぐあんばーる社長の菅原潤一氏は、敬さんとの思い出を語り始めた。

「“(TUBEとは)85年デビューで同期です”と言われて、そのことを意識したのはTUBEのA&R、つまりTプロジェクト(主にTUBEのプロジェクトと新人開発を行った部署)になってからですね。彼は入社当時、媒体担当だったから、頻繁に顔を合わせるアーティスト担当と違って、現場でしか会わないケースの方が多い。だからTプロジェクトができて、やり取りをするようになってからの印象としては、本当に独特で無口で朴訥というか、ソニーミュージックっぽくないなと(笑)」

 菅原氏は、敬さんとの接点を詳しく話す前に、TUBE誕生前夜の実に興味深いエピソードを語ってくれた。当時の菅原氏は田辺エージェンシーでタモリや中原理恵を担当し、「菅原班」としてメディアへ強力に所属タレントを売り込んでいた。そんな菅原氏は1984年10月に同社を退職することになる。上司であった川村龍夫氏(現:芸能事務所ケイダッシュ代表取締役会長)は、11月の頭に六本木のクローバーという喫茶店に菅原氏を呼び出し、長戸大幸氏(音楽制作会社ビーイング(現:B ZONE)創業者)と引き合わせる。意気投合した2人は、制作・プロデュースが得意な長戸氏とマネージメントが得意な菅原氏で共同出資の会社を作ろうという話になる。これがのちにTUBEの制作の母体となるホワイトミュージックだ。そして、菅原氏は長戸氏から1枚のモノクロの写真を見せられた。18~19歳の男の子4人組のバンドで、“パイプライン”という名前が付いていた。可能性を感じた菅原氏は長戸氏と組んでそのバンドを売り出すことを決意する。そのバンドこそがTUBEなのである。

 菅原氏は早速、CBS・ソニーの酒井政利氏のところに企画を持ち込んだ。すると、酒井氏は二つ返事でGOサインを出したという。そして、CBS・ソニーのレーベルヘッドをつとめるソニーレコード国内第3制作本部の橋爪健康氏がTUBEを担当することとなった。

 デビューシングル曲「ベストセラー・サマー」は、酒井氏とともにCMプロデューサーの関山和雄氏に売り込み、「キリンびん生」CMソングとして10万枚を超えるスマッシュヒット。華々しいデビューを飾った。それ以来、菅原-長戸-橋爪でTUBEプロジェクトが進行し、次々とヒット曲が生まれ、アルバムは連続してミリオンを達成。名実ともに日本のトップアーティストとなっていく。

 そして、TUBEのデビューから11年後の1996年。ソニーミュージックの社内は揺れていた。16作目のアルバム『Only Good Summer』がリリースされた直後、橋爪氏が米ワーナーミュージックグループのイーストウエスト・ジャパン社長として引き抜かれるという事態が発生する。その頃のTUBEプロジェクトの母体となったソニーレコード国内第3制作本部は、1993年に開幕したJリーグのオフィシャルテーマのリリースの権利を獲得し、TUBEのギタリスト春畑道哉のギターインストによる「J’S THEME(Jのテーマ)」を発表。歴史的なJリーグの開幕戦「横浜マリノス(現:横浜F・マリノス)対ヴェルディ川崎(現:東京ヴェルディ)」でのパフォーマンスを実現させていた。また、TUBE以外の所属アーティストに目を向けると、郷ひろみはバラード3部作(「僕がどんなに君を好きか、君は知らない」「言えないよ」「逢いたくてしかたない」)の成功で新たな境地を獲得し、オーソドックスなロックバンドだったTHE BOOMは沖縄音楽にアプローチした「島唄」やサンバ調の「風になりたい」を大ヒットさせるなど攻めた姿勢で好成績を記録。ソニーミュージック内のレーベルの中でも独自の存在感を放っていた。

 この時の移籍は、橋爪氏個人の移籍ではなく、そんな第3制作本部に所属するディレクター、プロモーター、ビジュアル担当を含めた総勢15名の移籍で、橋爪氏を筆頭に部署ごとそのまま会社を異動するかのような前例のないスケールだった。ソニーミュージック内に激震が走った。TUBEもひょっとしたら橋爪チームについていくのではないか。そんな憶測と噂が社内に充満していた。

「橋爪君には今でも怒っているんだよ。より契約条件のいいレーベルから移籍のお誘いもあったけど、彼(橋爪氏)をソニーミュージックの役員にするまでは一緒に頑張ろうと長戸君も含めて話していたはずなのに。自分からいなくなるなんて。しかも、僕が行かないことが分かっているTUBEの地方ライブ会場に行って、メンバーに直接移籍を打診したり、行儀が悪い。そこで、いち早くソニーミュージック残留を決めて、役員の五藤さんと今後の体制について話したよ」

 橋爪氏移籍後の、菅原氏の窓口となっていたのは、五藤宏氏だった。五藤氏は早稲田大学の雄弁会出身でコミュニケーション能力が高く、事務方として、各部門を渡り歩き、実績をあげ、当時制作担当の役員を務めていた。その後は、ソニー・ミュージックエンタテインメント専務取締役などの職に就き、2017年にこの世を去っている。ちなみに、敬さんが入社した際には人事部長を務めていて、新入社員の中から敬さんを見出し、その配属先を国内販売促進部にする決定を下したのは、まさにこの五藤氏だった。

 菅原氏と五藤氏は話し合い、橋爪チームの後任人事に着手する。そこで、五藤氏の脳裏に浮かんだのは、敬さんの姿だった。五藤氏は、すでにタイアップで数々の実績をあげ、頭角を現していた敬さんを呼び出し、TUBEプロジェクトの後任に抜擢することを決意する。敬さんはチーフプロデューサーという肩書となり、五藤氏が直接管轄する部署として独立することになる。Tプロジェクトの誕生である。

「TプロジェクトのTはTUBEのTなのか敬(たかし)のTなのか、結局最後まで分からなかったな(笑)。吉田君は僕には“TUBEのT”です!”と説明してたけど」

 スタッフ大量離脱を受けたTUBEプロジェクトの責任者に抜擢された敬さんは、制作本部の中の1アーティスト担当ではなく、TUBEをヒットさせるための部署を設立することにこだわり、五藤氏に談判したという。TUBEで得た利益はTUBEの宣伝費にそのまま還元したい。大きな制作本部の中ではビッグアーティストの利益がいったん部署の利益として回収され、他のアーティストの宣伝費に割り振られてしまう。それでは、アーティストのポテンシャルを引き出す最大限の宣伝施策が組めなくなる。そう敬さんは考えての談判だった。そして、翌1997年にリリースするTUBEの17枚目のアルバム『Bravo!』に向けてプロジェクトはスタートするが、その前に春畑道哉プロデュースの女性シンガー、佳苗のデビューを手掛けることになる。

「春畑が良い曲を作るんで、作家・音楽プロデューサーとしても活躍してもらいたいなと思っていたところに、当時ソニーミュージック大阪にいた薗部好美さんから紹介されたのが佳苗だった。それで、吉田君にデビュータイミングのタイアップを相談したら、“わかりました!”って、いきなり日本テレビの福田泰久さんというプロデューサーのところに飛び込んで、『高校サッカー』のタイアップの話をまとめてきてくれた。それでなかなか仕事ができるなと、彼に一目置くようになった」

 佳苗のデビューシングル曲「この地球が果てるまで」が使用された、この年の高校サッカー大会(『第75回全国高等学校サッカー選手権大会』)は、その後世界的に活躍するサッカー選手となる中村俊輔が高校最後の年で大活躍して準優勝を遂げるなど非常に盛り上がり、楽曲もスマッシュヒットした。

 菅原氏はそんな、敬さんの働きぶりをみて感心して、こう助言したという。

「吉田君は、タイアップ獲得に関しては貪欲でした。そして自ら直接飛び込む。“ソニーミュージックの吉田ですけど……”といきなり代表番号に電話をかける。決まった仕事以外にも失敗した例もおそらくあるんだろうけど、確率は非常に高かったよね。“ぐあんばーるの菅原ですけど”って電話しても、先方は出てくれないが、“ソニーミュージックの吉田です”といえば、宣伝部長であれ担当者であれ、必ずなんだろうと電話に出てくれるはずなんだよね。ソニーミュージックというブランドは社会的信用が高いんだよ。だからそれは惜しまずに電話した方が良いと彼にはよく伝えました」

 そして、次に敬さんが菅原氏のところに持ちこんだタイアップは、バラエティ番組『電波少年』ヒッチハイクシリーズ第2弾となる「ドロンズの南北アメリカ大陸縦断ヒッチハイク」だった。

「タイミング的に前田(亘輝)のソロでいこうと。バンドよりソロの方が動きやすかったというのがあったのかな。応援ソングみたいなテーマは、ひょっとしたら夏のイメージのTUBEではなく前田のソロプロジェクトの方が合うんじゃないかということになった。われわれTUBEはお正月が明けてからずっとハワイでレコーディングをするのがこの数年、続いてたんだけど、そこに吉田君が迎えにくる形で一緒に(ドロンズのいる)リオデジャネイロに向かったんですね。リオのカーニバルを楽しみながら、ドロンズを探そうみたいなノリで」(※1)

全国各地含め全社一丸となって臨んだアルバム『Bravo!』

 菅原氏はタイアップの得意な敬さんだからこそ、“TUBEの次のアルバムは収録曲全曲タイアップでいこう”と話をふった。すでに収録予定曲の何曲かはタイアップの見込みはついていたので、残り数曲を決めてもらえばよい。言うのは簡単だが、実現させるのは相当大変だ。敬さんは、全国のプロモーターを巻き込みその実現に奔走し、見事、菅原氏のリクエストに応えた。

「おそらく当時は他のアーティストでもアルバム全曲タイアップというのはなかった。史上初じゃないかな。“ここまで来たんだから絶対そうしましょう、それが売りになるから!”って、彼が全部整理してタイアップをつけたんだよね。リードシングルとなった「情熱」はコロナ「エアコン」CMソングと雑誌『Tokyo Walker』のCMソングとのWタイアップになった。“大丈夫なの?”って言った憶えがある。大阪の水族館・海遊館のCMソングや北海道マラソンのイメージソングなんていうタイアップもあった。彼の粘り強さ、発想力、行動力を感じたよ」

 こうして、TUBEの17枚目のアルバム『Bravo!』収録曲には全曲タイアップがついた。一方、ソニーミュージックの各部門の現場としては、自分たちが不甲斐ない成績を残してしまえば、TUBEは移籍してしまうかもしれない。自然な流れとして、まずはこのアルバムをミリオンヒットにすることが至上命題となった。敬さんは、うまくこの危機感を利用し、アルバムを売るための全社一丸体制を構築すべく各部門と連携を取っていく。

 当時、営業の販売推進(営業の戦略を考える部署)にいてTプロジェクト担当となった大谷英彦氏(現:ソニー・ミュージックソリューションズ代表取締役  ※2)は、この頃のことをこう語ってくれた。

「先行シングル「情熱」からアルバム『Bravo!』にかけて数々の営業施策の打ち合わせをしたのを覚えています。とにかくアイデア出しの千本ノックでした。でも、数字に対するプレッシャーをかけてくるというよりは、“いいものができたので思い切りやろうよ!”と、ピュアな物言いでモチベーションをあげてくれる、その熱量がすごかった。こちらの意見もよく聞いてくれて、一度、“どんな初回仕様にしたら良いか“営業現場の意見を吸い上げてくれ”と会議を行ったこともあります」

 当時のCD販売における“初回仕様”とは、各ビッグアーティストのアイデンティティーを示すうえで、重要視されており、コアファンに向けたイニシャル(初回受注数)対策として大きな効果があった。しかしこの頃、その傾向がどんどんエスカレートしてきて、什器に入らないような場所だけかさばる特殊仕様が横行し、各店舗を悩ませているという具体的なレポートが、営業の現場から敬さんにフィードバックがあったという。TUBEも毎年、夏の風物詩的な特殊パッケージによる初回仕様でのリリースを行っており、『Bravo!』も新たにセールスポイントとして打ち出せる特殊仕様パッケージが求められていた。

 そこで、レーベル制作側からのアイデアで、その時、旬なグッズだった携帯ストラップを初回盤に封入し、特典による購買意欲促進と店頭販売のしやすい特殊仕様の両立を図ることに成功した。ストラップの色をピンク・黄色・水色・緑・オレンジの5色にしたことで、結果、コアファンが全色コンプリートしたい場合は5枚を購入することになる。複数購入施策としても、1997年時点では相当画期的な初回仕様となった。

「特殊仕様の先駆け的なものとしては、サザン(サザンオールスターズ)がスイカの模様をした缶にCDとトランクス、ショーツを入れて販売して、それが爆発的に売れたんだよね(『すいか Southern All Stars Special 61 Songs』/1989年)。『Bravo!』の時も特殊仕様全盛で各社アイデアの出し合いみたいなところがあった。(ソニーミュージックからの提案を受けて)携帯のストラップをつけるんだったら、ここに入れたらいいんじゃない? って。帯の部分を透明にして、購入者から見えるようにしたほうがよいとアドバイスしました」(菅原氏)

 大谷氏は敬さんとともに、全社一丸を演出するために様々な工夫を営業主導で行った。“目指せ!ミリオン”という立看板を特注し、日めくりカレンダー方式で“100万枚まであと〇〇枚!”という掲示を社内の要所で行った。特に社員食堂では、発売日から100万枚行くまでの間、ランチを無料にするというインナーキャンペーンを行ったという。

 その頃、福岡でエリアプロモーターをしていた小澤愼仁郎氏(現:ソニー・ミュージックマーケティングユナイテッド宣伝本部本部長)は、TUBEのプロモーションに力を注いだ一人だ。

「敬さんは、あの時に宣伝の王道的なことを全部やろうとしたんですよ。地方販促を大事にする人だったので、全国会議で敬さんは独自施策をやろうと各地のプロモーターにハッパをかけ、良い施策には今では考えられないような宣伝費を割り振ってくれた。僕も“テレビと組まなきゃダメだよ”ってヒントをもらって。福岡(九州地区)には敬さん時代に開拓したKBC(九州朝日放送)をキー局に長崎、熊本、鹿児島をネットしている『ドォーモ』という平日帯の深夜情報番組があって、その番組と組む施策を考えました」

 小澤氏の考えた施策は、番組でTUBEの好きな曲を視聴者投票し、その上位10曲だけの応募者招待の無料ライブを行うという“TUBEベストテンライブ”という企画だった。

 KBCは5000人収容できる、ビーコンプラザ(別府国際コンベンションセンター)という大分の複合施設の中にある会場をいい条件で借りられるよう段取りをつけてくれた。当時のコンサートでは、直近のアルバム曲中心でヒット曲は要所でしかやらなかったTUBEがシングルだけのライブを行うというのは非常に画期的なことだった。全国から10万通を超える応募ハガキがKBC『ドォーモ』のスタッフルームに届いた。部屋にスタッフが入れなくなるほどだった。

 敬さんの働きかけにより、こうしてTUBEのアルバム『Bravo!』は、各部門、各地の担当者がそれぞれの場所でアイデアを出し合い、力を結集したことで、見事公約として掲げた100万枚出荷を達成することができた。その達成感によって、「TUBEの移籍はこれで回避できた!」という空気がやっと社内に流れた。

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