『電波少年』土屋敏男氏が明かす、爆風スランプ・前田亘輝ら参加「ヒッチハイク3部作」で生まれた数々の奇跡【評伝:伝説のA&Rマン 吉田敬 第2回】

評伝:伝説のA&Rマン 吉田敬 第2回

 今から十数年前、48歳という若さでこの世を去った“伝説のA&Rマン”吉田敬さん。吉田さんの懐刀として長年様々なプロジェクトを共にしてきた黒岩利之氏が筆を執り、同氏の仕事ぶりを関係者への取材をもとに記録していく本連載。

 第2回となる今回は、90年代に一斉を風靡したバラエティ番組『電波少年』プロデューサー(現・Gontents合同会社代表)土屋敏男氏にインタビュー。猿岩石、ドロンズらがヒッチハイクのみで大陸を縦断する企画「ヒッチハイク3部作」にいち早く目をつけ、土屋氏にプロモーションを仕掛けたという吉田さん。土屋氏の話からは常にチャンスを見逃さず、アーティストプロモーションと番組制作、双方にとってよりよいものを追求する吉田さんの仕事人としての姿勢が見えてきた。(編集部)

爆風スランプらに事前に知らされていなかった企画内容

 敬さんがソニーレコードのテレビ、タイアップ担当として活躍した当時、日本テレビでは今でも伝説として語り継がれているバラエティ番組『電波少年』(『進め!電波少年』(1992年~1998年)及び『進ぬ!電波少年』(1998年~2002年)など)がオンエアされていた。

 敬さんは、その番組内で国民的注目を集めた「ヒッチハイク3部作」といわれる企画に、“応援ソング”という新たなタイアップソングを仕掛け、ヒット曲を生み出した。

「最初は“すーっ”て現れた」

 当時、日本テレビは麹町に本社があり、土屋氏は6階の制作局のデスクに座っていた。
 局担といわれるレコード会社や事務所の宣伝マンがアポもなく制作局のデスクからデスクへと“回遊”し、自社アーティストの売り込みを行う風景が日常だったという。
 敬さんは、日本テレビも担当していた。レコード会社の宣伝マンは主に歌番組のブッキングのために、局内を回遊するが、敬さんの狙いは別のところにあった。1回の歌番組の出演よりも番組のテーマソングを獲得すれば、毎週楽曲が流れる。その方がヒットへの近道だと確信していたのである。そこで、目をつけたのが、“アポなしロケ”で世間の注目を集めていた『電波少年』である。

 1996年4月、その『電波少年』の中であるコーナー企画がスタートする。
 当時無名のお笑いコンビ・猿岩石(有吉弘行、森脇和成)が番組内で土屋プロデューサーに呼び出され「香港から出発し、ユーラシア大陸をヒッチハイクで横断、ゴールのロンドンを目指す」という目的を果たすように告げられる。
 「猿岩石のユーラシア大陸横断ヒッチハイク」の始まりだった。

「企画が始まって1カ月ぐらいかな。香港を出発して、深圳~ベトナムと移動し、3カ国目のラオスに入る時、最初に渡した(所持金)10万円が尽きて、3日ぐらい野宿するっていうのがあって。あれ、これひょっとしたら、面白いんじゃないのっていう手応えが世の中的に出てきて。それで、秋元康さんが、そのあたりで電話してきた。『猿岩石、これ絶対面白いよ、ロンドンでゴールしたら、その足でスタジオに入れて、歌を歌わせよう』って。業界の人たちの反応の中では秋元さんが一番早かった。(その申し出は)彼らは歌手でもないし、番組的にも余裕がないから断って。でも、その時に“歌”っていうキーワードが、なんかふっと(発想として)残ったのかな。そんな時、吉田さんが『ウチで(“応援ソングを”)作らせてください。爆風(スランプ)でやりたい。やらせます』と言ってきたんです」

 いつしか土屋氏は、コーナー終わりでヒッチハイクに成功した猿岩石がトラックの荷台に乗って、次の目的地に向かっていく、その画にふさわしい音を模索していた。番組にもゲストで出演したことのあるビッグアーティストの既存曲の中にイメージに近いものがあり、楽曲の使用許可をオファーするもあっさり断られてしまい、困り果てていた。そこに敬さんが“アポもなく”登場したのである。
 土屋氏は爆風スランプのメンバーがロケに参加し、書き下ろした応援ソングを直接、猿岩石に披露することを条件に、敬さんの申し出を受けた。

「とにかく僕のやり方って、日々思いつきでやるので、それに吉田さんもよくついてきてくれたと思いますね。気づいたら、(インドの)デリーに(サンプラザ)中野さん、(パッパラー)河合さんと一緒に、吉田さんもいた。空港から出て、(爆風スランプの2人が)『猿岩石どこにいるんですか?』って言うから、『いや、これから探してもらうんです』って答えたら、『やられたー!』って言って(笑)」

 番組は、猿岩石視点のヒッチハイクから、爆風スランプのメンバーに視点が切り替わり、猿岩石を捜す旅が繰り広げられる。ミュージシャンには過酷なロケだ。

「芸人だったらまだしも、ミュージシャンに(企画内容を)秘密で連れてくってことは、あり得ないじゃないですか。でも、(吉田さんが)そこをそう仕切ってくれて。中野さん達もノッてくれて、1日目、スラム街とかに行って捜したんだけれども、見つからない。宿も探してもらって、一緒に泊まって。2段ベッドみたいなとこ(安ホテル)で。とにかくインドは停電が多いんですよ。夜、その部屋にいると停電がおきる。2段ベッド2つの4人部屋だから。中野さんと河合さんと僕と吉田さんだったかな。やることもなく……とにかく電気がよく消えましたね(笑)。そんな中、吉田さんは愚痴も言わず、始終ニコニコしていた印象がある。それで翌日、公園に行ってみようってなって。公園で(猿岩石に)会えて、(応援ソングを)歌って。よく付き合ってくれましたよね」

 その時に歌われた応援ソングが、のちに29枚目のシングルとしてリリースされる「旅人よ~The Longest Journey」(1996年)である。

【MV】旅人よ~The Longest Journey(25th Anniversary Version)

 このロケは、単なる楽曲提供にとどまらない、ミュージシャンのヒューマンドキュメントとなった。
 猿岩石を見つけ出し、パッパラー河合のギター1本で応援ソングを披露する。メンバーとの交流が生まれ、何日もロクな食事を摂っていない彼らに日本食をご馳走し、旅費を稼ぐためのストリートライブを行う。
 僕ら目線で見ると、ここに最大級のアーティストプロモーションが実現していると感じる。
 楽曲はシングルCDが約50万枚を売り上げるヒット曲となった。
 こうして、敬さんと土屋氏の信頼は深まっていった。
 そして、いよいよ猿岩石はゴール地点のロンドンに到達しようとしていた。
 敬さんはメンバーと共に、再びロンドンに飛んだ。

「ロンドンのトラファルガー広場でゴールとなるわけですが、中野さんが『(パフォーマンスを)バンドじゃなくて、ここはオーケストラバージョンでやろう』って言うわけです。で、(同じレーベルの)ソニーつながりでロンドン・フィル(ハーモニー管弦楽団)を入れようとなった。後で聞いたら大変なことだって言われましたよ。で、気がついたら、ロンドン・フィルが入ってた。僕は全然そういう知識がないから、“あ、入るんだ”っていうぐらいの感じですよ。トラファルガー広場も本当はテレビの一企画に貸してくれないけど、ロンドン・フィルがやるんだったらということで貸してくれたんですね。ロンドン・フィルを入れてくれた吉田さん、ソニーはすごいことをしてくれたんだなと。ある種の奇跡ですよね。僕なんか思いつきで色々言ってるだけだけど。吉田さんは本当に演出の意図を汲んで動いてくれた」

前田亘輝がマイナス40度の中で歌ったドロンズのゴール

 「猿岩石のユーラシア大陸横断ヒッチハイク」が国民的反響を得た土屋氏は、シリーズ第2弾を実行に移す。1996年10月末にスタートした「ドロンズの南北アメリカ大陸縦断ヒッチハイク」である。ロンドンでの動きに感激した土屋氏は迷わず“応援ソング”の相談を敬さんにする。他の選択肢は考えられなかったという。

「第2弾の前田亘輝さんは吉田さんチョイスだと思う。信頼関係が特にTUBEにはあったのかな。ドロンズや番組側からのオーダーがあったわけではなかったので、(第2弾の応援ソングを)誰にするかというのは、その段階では吉田さんに委ねていたってことなんです」

 この時、テレビ、タイアップ担当の実績を買われた敬さんは、Tプロジェクトという部署を立ち上げ、TUBEの17枚目のオリジナルアルバム『Bravo!』のプロモーションの先頭に立ち、収録全曲でタイアップを獲得するなど、プロジェクトを牽引し、ミリオンを達成していた。
 前田亘輝もリオデジャネイロに飛んだ。

「(リオデジャネイロに来てくれた)前田さんも、(ドロンズを)捜すのは何となく覚悟してたんだろうと思うんだけど、『今日、野宿ですよ』って言ったときの前田さんの表情は忘れられないよな。当然、吉田さんなりマネージャーの方を探すわけじゃないですか。そういう時って、目を伏せるんですかね(笑)。そのミュージシャンとは信頼関係もあるだろうから、企画内容を言わないでいるというのはすごく辛いことだったと思う。『はい、寝袋』って渡されたときの前田さんの表情にリアルさがあったから、言わずにいてくれたんだろうと思いましたね」

 そして、1997年12月31日に迎えたゴールのアラスカでも奇跡が生まれた。

「アラスカのドロンズのゴールにも前田さんが行ってくれて。マイナス40度なわけですよ。そこでライブで歌を歌うということは(同行ドクターが)危ないっていうわけ。マイナス40度の空気を吸うからブレス(歌うために大きく息を吸い込む)をすると、寒さで空気が肺の中で凍ってしまう危険があり、保証はできませんよと。そこで口パクとか、蝋燭を目の前において蝋燭の火の動きで空気を吸い込む量を調整するとか考えたんだけど、結局、ライブ(生歌唱)で前田さんがやってくれて。あれも奇跡の映像でしたね。マイナス40度の中で前田さんのあの歌声だから。感動のゴールをまた作ってくれた。
 これは僕の師匠の萩本欽一の教えでもあるんだけど、『奇跡の起こらない番組はつまらない』って言うんですね。で、やっぱり『電波少年』っていくつかの奇跡があって、その大きな奇跡の一つだと思って。前田さんが彼らのために作った歌を歌いたい。その気持ちが人間の生理を超えていくっていうかね。あの時の前田さんは、すごかったもんな。あのライブはもう1回見たいと思うシーンの一つですね。何度見てもいいし。本当に大きな奇跡の一つだと思ってますね」

 この時に披露した「君だけのTomorrow」 は、前田亘輝の6枚目のシングルとして1997年9月にリリース。ヒットを記録した。

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