デフスターレコーズ座談会 レーベル関係者4氏が語り合う、忘れがたい日々【評伝:伝説のA&Rマン 吉田敬 第3回】

評伝:伝説のA&Rマン 吉田敬 第3回

 今から十数年前、48歳という若さでこの世を去った“伝説のA&Rマン”吉田敬さん。吉田さんの懐刀として長年様々なプロジェクトを共にしてきた黒岩利之氏が筆を執り、同氏の仕事ぶりを関係者への取材をもとに記録していく本連載。

 第3回となる今回は、吉田さんが初代社長を務めたデフスターレコーズに在籍していたメンバーによる座談会をお届けする。黒岩氏の呼びかけにより参加したのは、藤原俊輔氏(株式会社ソニー・ミュージックエンタテインメントコーポレートSVP/株式会社ソニー・ミュージックレーベルズ執行役員専務)、大谷英彦氏(株式会社ソニー・ミュージックエンタテインメント取締役執行役員/株式会社ソニー・ミュージックソリューションズ代表取締役執行役員社長)、大堀正典氏(株式会社トイズファクトリー専務執行役員)の3名。黒岩氏も含めそれぞれが異なるキャリアを進み、現在も各社の重要なポジションから音楽業界を支える首脳陣が集結した。

 吉田さん率いるデフスターレコーズはいかにして誕生し、発展を遂げたのか。吉田さんと過ごしたデフスターレコーズでの忘れがたい日々について語り合っていただいた。(編集部)

個性的でユニークなキャラクターが揃ったデフスターレコーズの誕生

 2000年7月、ソニーミュージック内の分社化レーベル第1号として誕生したデフスターレコーズ。敬さんを筆頭にA&Rチーフを藤原俊輔氏、プロモーションチーフを僕が務め、レーベル運営における敬さんのサポート役を大堀正典氏が担う体制でスタートすることとなった。

 そんなデフスター時代、敬さんを支えたチームである僕らが1人また1人と、取材場所に集結する。

 最初に到着したのは、藤原氏。クリエイティブ感度が高く、調整力にも長けたセンスの塊。

 前日の僕とのメールでのやり取りで、「敬さんから言われた印象的な言葉を思い出してきてください」とリクエストしたところ、「敬さんは“行動の人”だから、言葉じゃないよ」と切り返された。

 次に到着した大堀氏は、実務能力の高い官僚タイプだが、冷徹に見えて本当は人情派。彼なりに、当時のデフスターの空気をどう分析するか楽しみだ。

 そして、最後に到着した大谷英彦氏。彼は持ち前のコミュニケーション能力に加え、包容力、人間力の高い、レーベルの兄貴分的存在だ。

 そんな大谷氏が対談の口火を切る。

「この4人が集まるのって、いつ以来だっけ?」

 そういえば、大谷氏のデフスターへの参加も半年遅れだった。当時、営業部のエースだった大谷氏をデビューシングルがリリースされた直後のCHEMISTRYのA&Rに抜擢するという、敬さん特有のサプライズ人事だった。

 こうして、A&Rは平井 堅、the brilliant greenを担当する藤原チームとCHEMISTRYを担当する大谷チームの2班体制になった。

 大谷氏の加入をもって、スタッフの陣容が揃い、一気にレーベルが軌道に乗り出した。

 敬さんは、デフスターでどんな組織作りを目指したのだろうか。

 藤原氏は、デフスターの前身である「Tプロジェクト」の誕生から、制作スタッフとして敬さんとともに歩んできた。Tプロジェクトは、TUBEプロジェクトを牽引する部署であると同時に、新人アーティストのリリースも積極的に行った。そこで新人開発と育成を担当したのが藤原氏で、the brilliant greenを発掘した張本人でもある。そんな藤原氏がデフスター誕生にあたって、そのスタッフの人選について語ってくれた。

「敬さんは、自分にないものを持っている人材を分け隔てなくチョイスした。気が合う人間はプライベートでの付き合いに限定して、選んだメンバーは仕事への誠実な態度と将来性で判断した」

 規律よりも個性、行動力重視。

 この4人を軸にその他のメンバーも含め、デフスターには、個性的でユニークなキャラクターが揃っていた。1970年代に大ヒットしたアメリカ映画になぞらえて、チームを「がんばれ!ベアーズ」だとよく言っていたことを思い出す。

「僕は紙媒体担当のプロモーターとして、敬さんと出会った。その時、僕が担当していた『東京ウォーカー』が大好物で、取材が取れたかを始終チェックされる日々だった」(大堀氏)

 大堀氏は、中途採用で保険会社からソニーミュージックに転職し、営業部を経て宣伝に異動。プロモーター時代に敬さんと出会い、Tプロジェクトにthe brilliant greenのアー担(宣伝戦略担当)として参加。1stアルバム『the brilliant green』(1998年)はミリオンを達成した。

 この僕も、新卒でソニーミュージックに入社後、地方営業所を経て映像部門に配属されたが1999年に宣伝に異動。TBS担当として、the brilliant green、平井 堅に深く関わっていくことになる。

 藤原氏が口を開く。

「デフスターの創立メンバーは、Tプロジェクトからの流れと、平井 堅のプロモーションを頑張ったメンバーからピックアップされたと聞いている」

 すかさず、大谷氏がつっこむ。

「ソニーミュージック全体の営業のキックオフ(新しい期がスタートする決起集会)の時に、各レーベルが流したプレゼンビデオでデフスターは自分達をゲリラ軍団だと宣言していた。ゲリラ軍団に参加したのか!?と驚いた」

 そんな、大谷氏にCHEMISTRYの担当を譲ったのが、大堀氏である。

「どのレーベルも見向きもしなかった時代から、レーベルの窓口として『ASAYAN』のオーディションに参加した。松尾潔さんがプロデューサーとして参加してから流れが変わった」

 男性R&Bデュオとしてのオーディションの方向性が明確化し、参加メンバーの個性や背景が明らかになってくるたびに、視聴者からの反響が目に見えてわかるようになってきた。そして、川畑要・堂珍嘉邦が選ばれ、松尾潔から「CHEMISTRY」と名付けられる。

「デビューシングル『PIECES OF A DREAM』(2001年)が大成功を収め、アルバムまでは担当したかったと正直思ったが、今では担当変更の判断が正しいと思っている」(大堀氏)

「パーフェクトピッチングをしている投手に(勝利のために)リリーフを出すようなものだよね」(藤原氏)

 大堀氏は、それ以降、レーベルアドミニストレーションとして敬さんのレーベル運営をサポートする。売上目標の立案から達成の推移、予算の管理、P/L(損益計算書)の作成、契約条件の策定など、デフスターの快進撃を陰で支えた立役者だ。大堀氏のポジションは、分社化した他のレーベルでも必要不可欠な雛型として機能することになる。

 敬さんの人事術は、言うならば「非情の采配」に徹していたと思う。その采配は、新たな仕事を生み、組織の活性をもたらしていくのだ。

 大谷氏は「非情の采配」という言葉を聞いて、自身にも思い当たる節があると話す。

「僕も何度もその局面を味わった。納得できずに抵抗してギクシャクしたことが何度もある」

 敬さんは、自らの意向を上から押さえつけるようなことはしない。よく部下の話を聞いてくれた。反面、摩擦も多かった。

 デフスター創立の話に戻そう。藤原氏は当時のソニーミュージックの状況を振り返りながら、新レーベル創立の狙いについての見解を語る。

「あの時のソニーミュージックは、スター社員といわれる人材がどんどん他社に流出する状態だった。求心力が低下していたのかな。敬さんの先輩たちも、どんどん他社に動いた。それが当たり前の時代だったのかな。そこで若手社員の引き留めと抜擢という意味合いで、デフスターができたんじゃないかな」

 一方の大谷氏は、創立の様子をこう見ていた。

「僕ら(営業部)的には納得の人事だった。他の制作部とは違う何かを僕らも感じていたし、新しいことが始まるぞと思った」

 レーベル名の“デフスター”は、敬さんと藤原氏の合作だ。

「敬さんが、最初は“スーパープロデューサーズ”にしたいと言ったので、大反対した記憶がある(笑)。その次に“~スター”にこだわっていた。僕が50個ぐらいアイデアを出して、なんとか“デフスター”に着地した」

 大堀氏も追随する。

「決してセンスの人ではない。どこか“ベタ”というか“いなたい”ところがあった。でも、それがユーザー目線でミリオンを連発できたともいえる」

 ここで、大谷氏はある資料を取り出した。当時のレーベル会議のものだ。

 レーベルの場所は、当時白金台にあったソニーミュージックの第2本社ビルを経て、ほどなくできたばかりの乃木坂ビルへ引っ越しすることとなる。

「この資料も今いま見ると、ロータスノーツ(当時主流だったパソコン用の文書共有ツール)ですか……(笑)。食堂でよく会議をやってたよね。会議室じゃなくて。それが斬新に思えた。それと、みんな気迫に満ちていた。アーティスト数が少なかったし、一球入魂というか、1アーティストごと丁寧に真剣に向き合っていた。鮮烈に覚えているね」

 敬さん時代のアーティストロースターは、the brilliant green、平井 堅、CHEMISTRY、キングギドラ、Sowelu、YeLLOW Generation、NORTHERN BRIGHTの計7組。どのアーティストも時代に爪痕を残すことができたと僕らは自負している。

 さらに、もう1枚の資料。敬さんからのメールをプリントアウトしたものだ。

「デフスターに赴任して1週間後、CHEMISTRYの担当になった直後に来た敬さんからのメールです。“そろそろアイデアをつめなきゃいけませんね”っていう。この時の緊張感と焦りをめちゃくちゃ覚えてて。レーベル業務やA&Rの勉強をする間もなくいきなり指令されたんです。そのあと自分がレーベルを任されるようになってからも、折に触れ何度も見返して。その緊張感を思い出すようにしていました」(大谷氏)

 藤原氏も、その時の大谷氏の様子を思い出す。

「ものすごいパワーを感じましたね。やらなきゃいけないという。目の色が変わってた」

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