忌野清志郎は日本の宝だったーー自由な反骨精神と優しさで魅せた“本物のロック” 「今井智子 ロックスターと過ごした記憶」Vol.1

音楽ライター 今井智子氏による新連載「今井智子 ロックスターと過ごした記憶」がスタート。約50年にわたるキャリアの中で、数々の日本のロックスターたちに取材を重ねてきた今井氏。本連載ではその軌跡をたどり、取材時や舞台裏でのエピソードも交えながら、彼らが時代に残した爪痕、音楽面での功績、ライブの凄みなどをたっぷり紹介していく。
第1回は、忌野清志郎を取り上げる。
ブレイク前夜のRCサクセション 『シングル・マン』再発運動から始まった快進撃
4月2日は忌野清志郎の誕生日。存命なら今年で74歳だ。孫を溺愛するいいおじいちゃんになっていたんじゃないだろうか。亡くなって16年も経つとは思えないほど、彼についての話はあちこちで途切れず、彼の歌声や曲も聴く機会が多い。曲もキャラクターも唯一無二の、まさに日本の宝と言いたいアーティストだった。
2025年4月2日、清志郎の本当に最後のワンマンライブとなった京都公演『LAST LIVE at 京都会館 2008』の音源がリリースされた。その年の2月10日に日本武道館で完全復活公演を行い、さらに大阪フェスティバルホールと京都会館で追加公演を行った。以前と変わらぬ声とパフォーマンスで歌い跳ねる清志郎に、「もう大丈夫だろう」と誰もが思ったものだ。日本武道館公演のライブ音源は同年6月18日にリリースされたが、京都公演はようやくのリリースで、なんだか感慨深い。
忌野清志郎というアーティストは、どんな風に捉えられているのだろう? 「愛しあってるかい?」と呼びかけながら派手なメイクをして飛び回りながら歌うロックシンガー? 反原発を訴える反骨精神に溢れるアーティスト? 「デイ・ドリーム・ビリーバー〜DAY DREAM BELIEVER〜」を歌っているTHE TIMERSというバンドとも関わりがある? 愛されキャラのおもしろおじさん歌手? どれもハズレではない。いろいろなことにトライしながら歌を伝えようとしたピュアな人だった。だから今も多くの人に愛され、様々なアーティストにリスペクトされ、楽曲が歌い継がれている。
忌野清志郎を知っていても、RCサクセションというバンドのメンバーだったことを知らない人も今では多いのではないだろうか。RCサクセションが活動休止したのは1991年。以来、活動再開したことはない。私が清志郎を知ったのは3人のRCサクセション時代で、最初はラジオの深夜放送だった。RCサクセションの3rdシングル曲「ぼくの好きな先生」が深夜放送でよく流れていた。落第しそうなところを美術の担当が絵を描いたら進級させてくれたという実体験から生まれた歌だ。引っ込み思案で成績もさほど良くない生徒の理解者となってくれる先生がいたら、全生徒が好きになるだろう。私もこの曲は大好きになった。ちなみに、この曲と同じ頃にヒットしていたのが古井戸の「さなえちゃん」。古井戸は、のちにRCサクセションに参加する仲井戸“CHABO”麗市が加奈崎芳太郎と組んでいたフォークデュオだ。仲井戸が作詞したこちらは大学ノートに好きな子のことを落書きをする歌。どちらの曲もほのぼのとしたスクールデイズを思わせて、清志郎と仲井戸には共通するセンスがあると思わせる。実際、この時代に両者はライブハウスで共演した際に友情を結んでいる。どちらも引っ込み思案なので会話ができず、楽屋で「チョコレート、食べる?」と子供のような接近方法をとったという話を聞いたが、最初に声をかけたのがどちらだったかは時間が経つほど曖昧になっていた。のちにRCサクセションの代表曲となる「トランジスタ・ラジオ」もスクールデイズの実話もの。授業をサボって屋上で音楽を聴いたり、近所の川に遊びにいったりしていたという。当時は「学校は好きだったけど、授業がキライだった」(※1)。なんとなく腑に落ちる感覚である。
話を戻そう。その後、RCサクセションも古井戸も思うようなヒットに恵まれず、特にRCは事務所のトラブルなどで不遇の時代に突入してしまう。だが清志郎は同じ事務所だった井上陽水と「帰れない二人」「待ちぼうけ」を共作、かぐや姫に「あの唄が想い出せない」の歌詞を提供するなどしていたから、作詞やソングライティング力は十分にあったということだ。バンドは活動もままならない状態だったが、清志郎はこれらの印税のおかげで金銭的な苦労はあまりなかったようで、RCのメンバー3人で共同生活をしたりしていた。3rdアルバム『シングル・マン』(1976年)にある思わずズッコケる写真は、共同生活していた頃の様子のまんまだと言っていた。その『シングル・マン』は一度はセールスの伸び悩みゆえ速攻廃盤にされたが、3年後の1979年に再発運動が起こり、翌年Kitty Recordsから再発された。ちょうどバンドも5人編成になりライブもやり始めていた。快進撃の開始である。