『すずめの戸締まり』と震災ドキュメンタリーが捉える“フィクションだから描ける現実”

新海誠らが乗り越えようとした“分断”

アニメーション・ドキュメンタリーが捉える現実

 近年、アニメーション・ドキュメンタリーというジャンルが隆盛している。アニメーション・ドキュメンタリーとは、文字通りアニメーションを用いて制作されるドキュメンタリー作品を指す。プライバシーの保護のためにインタビュー映像をアニメーションに加工したものや、過去の記憶などの主観的イメージ、あるいはカメラが存在しなかった出来事の目撃談などをアニメーション化したものなどを指す。

 アニメーション・ドキュメンタリーの特性は、カメラでは映せない現実に迫る点にある。

 アニメーションがドキュメンタリーとなり得る可能性を論じるためには、まずドキュメンタリーを論じる必要がある。ドキュメンタリーへのよくある誤解の1つに「ドキュメンタリーは客観的である」というものがある。

 ドキュメンタリーは、その誕生の時点で客観的ではなかった。この言葉を最初に使ったのは、イギリス出身の映画監督で、カナダ国立映画局責任者などを歴任したジョン・グリアソンだ。彼はドキュメンタリーを「現実の創造的処理」と定義した(※11)。

 グリアソンは、ドキュメンタリーの父ロバート・フラハティの『モアナ』(1926年)を評する時にこの言葉を用いたが、彼の作品には、多くの演出があったことはよく知られている。

 カメラによる撮影自体、撮影者の主観が混じるものであり、客観性や真実性を必ずしも担保するわけではない。むしろ、実写映像のドキュメンタリーはカメラの制約のため現実を狭めている可能性もあるとアニメーション研究者の土居伸彰氏は指摘する。

ドキュメンタリーは実写映像のみを用いている限り、光学的に記録しうる範囲に限られた、狭い現実しか扱えないのではないか? 一方、アニメーションは、その拘束を超えることができ、それによって、これまで現実だと思われていなかったものを現実だと認識させることができるのではないか? (※12)

 アリ・フォルマン監督の『戦場でワルツを』はアニメーション・ドキュメンタリーの可能性を知れる好例だ。この映画は、監督のフォルマン自身がかつての戦友や心理学者を訪ね、戦場での失われた記憶を探る作品だ。関係者を訪ね歩いて撮影した映像をアニメーションに変換し、さらに、断片的に思い出されていく戦場の光景もアニメーションで描いていく。

 本作がアニメーション技術を必要としたのは、主に2つの理由だ。1つはインタビューに応じた者たちのプライバシー保護のため。過酷な戦場での加害の話も交じるため、話し手が明らかになると、当人に不利益が生じる可能性があるためだ。

 もう1つの理由は、過去の記憶という撮影できないものを表現するためだ。フォルマン監督が戦場で体験したものは、カメラで撮れないが、彼が現実に体験したものであり、観客とその主観的現実を共有するためにアニメーションが必要だった。

 アニメーション・ドキュメンタリーのもう1つの好例は、2021年のデンマーク映画『FLEE フリー』だ。本作はアフガニスタンから難民としてヨーロッパにやってきた青年アミンの現在と過去を描く作品だ。本作もプライバシー保護のためにアニメーション加工が用いられている。

喧噪のアフガニスタンと、あの世界的大ヒット曲――『FLEE フリー』本編冒頭映像

 そして、難民として経験した過酷な旅の記憶を映像化するツールとしてもアニメーションが用いられる。重要なのは、主人公が幼少期を過ごした、タリバン台頭前の自由な気風のアフガン社会をアニメーションで描いている点だ。アフガンといえば狂信的な連中が自由を蹂躙する国家というイメージが定着してしまった現代においては、これは貴重な「記録」として機能している。

 筆者は、本作のヨナス・ポヘール・ラスムセン監督にインタビューしたことがある。その時、ラスムセン監督は、本作制作時の幻のプランの話をしてくれた。

実は、映画の製作過程で故郷を探すために一度アフガニスタンに戻ってみないか、という話を持ちかけました。しかし、彼は断りました。理由は、自分の育った故郷はもうない、今はもう違う国となってしまったので、自分の知っているアフガニスタンを美しい記憶のままとどめておきたいと言ったのです。(※13)

 ラスムセン監督は、撮影できる今のアフガンの姿も捉えようと思ったのだ。しかし、主人公のアミンにとって、今のアフガンはもはや自分の知るアフガンではない。彼にとって「本当の」アフガンとは、幼少期の自由なアフガンだけなのだ。アニメーションは記憶の中だけにある「失われた」故郷を描く手段として効果的に機能している。

 アニメーションでなくては描けない現実があることを、米国アカデミー賞も認めたのか、『FLEE フリー』は2022年の長編ドキュメンタリー映画部門と長編アニメーション部門に同時にノミネートを果たす快挙を成し遂げた。

ドキュメンタリーはジャンルからモードへ

 土居氏は、アニメーション・ドキュメンタリーの隆盛によって、ジャンルの定義が広がりつつあることを指摘し、記録映像をベースにしたものだけでなくノンフィクションを題材にしたアニメーション作品を含むこともあるという(※14)。例えば、こうの史代原作、片渕須直監督の『この世界の片隅に』にも土居氏はドキュメンタリー的な要素を見出している(※15)。

 ドキュメンタリーがそもそも創造的なものだとすれば、フィクションとの垣根は案外低いもので、逆に様々な映像にドキュメンタリー的な要素を見出すことも可能だろう。

 映画評論家の渡邉大輔氏は、『新映画論 ポストシネマ』において、現代はドキュメンタリーの時代であると主張している。低予算のホラー映画、怪獣映画などがフェイクドキュメンタリーのスタイルを選択するケースが多いこと、ネット上に記録映像が溢れていることなど、ドキュメンタリー的な映像が溢れている状況を指し示し、「いまやひとは誰でもスマートフォン片手に即席の『ドキュメンタリー作家』になれる」といい、成長過程を見せるアイドル産業やプロレス人気の再興など「ドキュメントと演出が混在する」コンテンツの流行を分析し、「時代精神としての『ドキュメンタリー的感性』がある時代」であると定義づけている(※16)。

 ドキュメンタリーは固有のジャンルを超えて、その要素と感性が拡散している状況と言えるかもしれない。こうした状況を筆者は、「ドキュメンタリーはジャンルからモードになった」と呼びたいと思う。

 「モード」という言葉は、ハリウッド映画の「メロドラマ研究」から出てきた概念だ。かつて、ジャンルとして研究対象だったメロドラマの諸要素は、現代においてはジャンルを横断して様々な映画に見られることが指摘されるようになった。ジャンルを超えて感性としてメロドラマが拡散するようになると、これまで別ジャンルだと見なされていた西部劇やギャング映画などにもメロドラマ的要素が見出せると論じられるようになった(※17)。

 ドキュメンタリーについても、同様の指摘ができるのではないか。ドキュメンタリー的感性が遍在するようになった結果として、アニメーションにも「モードのドキュメンタリー」が入り込み、アニメーション・ドキュメンタリーの隆盛が起きたと筆者は考えている。

 拡散したモードのドキュメンタリー要素は、ノンフィクションではないアニメーション作品にすら見出せるだろう。例えば、聖地巡礼を誘発するタイプのアニメ作品は、舞台となる土地の風景を克明に描くことが多いが、その時代の風景を記録する機能が必然的に混じる。

 そして、新海誠監督は、そうした聖地巡礼を誘発するタイプの作品を数多く残してきた作家だ。

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