『陪審員2番』が投げかけるリアルな“問い” クリント・イーストウッドの“妥当な融和点”に
映画、ドラマで国境を越えた俳優として、そして映画監督として、比類ないほどにさまざまな活躍を遂げてきたクリント・イーストウッド。その最後の監督作になるかもしれないと言われているのが、最新作『陪審員2番』だ。それが事実なのだとすれば、非常に残念なことだが、引退は世の常である。100歳を超えても現役監督であり続けたマノエル・ド・オリヴェイラ監督という超人的な存在がいたことも事実ではあるが、現94歳の映画人にこれ以上の奮闘を期待するというのは、常識的に考えれば酷なことだろう。
だが、そんな映画文化の隆盛に貢献してきたイーストウッド監督の有終の美を飾る可能性があり、多数の批評家の支持も受けている『陪審員2番』が、アメリカの劇場で限定公開にとどまり、日本では劇場公開が現時点で見送られているのは、悲しいことだ。監督作が日本で未公開となったのは、じつに51年ぶりというのだから異常事態だといえる。この結果を受けて、劇場公開を望むファンによる署名運動もネット上でおこなわれている。
とはいえ、実際に本作『陪審員2番』を鑑賞すると、スルーされた理由も理解できなくはない。本作は裁判所と主人公の自宅、ロードハウスや田舎道など、スケールの小さな世界を舞台に、ありふれた人物の罪の意識についてを主軸にした映画であり、近年のイーストウッド監督作のなかでも地味な題材を扱った一作だからだ。
そして、監督としての最終作であることが明言されてない以上、それを謳って集客することも難しい。ことに洋画の興行が低迷する日本の現状では、公開に足るだけの興行成績が見込めないと判断されるのも、無理はないのかもしれない。U-NEXT独占配信という扱いで、いち早く作品が鑑賞できるだけでも、まだ良かった方だという考え方もある。
だが、もちろん興行上の判断と、作品自体の価値は別ものだ。本作は、一見地味に見えるほどに身近な世界を扱っているからこそ、観客一人ひとりにリアルな“問い”を投げかける、印象深い一作となった。
ニコラス・ホルトが演じる主人公、ジャスティン・ケンプは、恋人を殺害した容疑で殺人罪に問われている被告人の男性ジェームズ・サイス(ガブリエル・バッソ)の裁判で、陪審員に選ばれる。陪審制は、一般市民から無作為に選ばれた十数人の人々が裁判に参加し、別室に入って評決について討議を重ね、有罪・無罪を評決するというものだ。
裁判が進み、事件があったとされる日時や天候、被害者女性の死亡した現場などの情報を詳しく知っていくなかで、ケンプはおそろしいことに気づき始める。思い返せば、ちょうどその日時、現場あたりに自分が居たような気がするのである。彼はその日、大雨のなか乗用車を運転し帰宅する途中で、車体に何かがぶつかったことに気づいていた。飛び出してきた鹿にでも接触したのだろうと思っていたが、もしかしたらそれこそが被害者であり、彼女を死に至らしめた加害者は「陪審員2番」である自分自身であったかもしれないのだ。
もちろん、ケンプにはそのことを名乗り出る社会的、法的な義務があるし、事実を隠しながら陪審員を続けるなど、もってのほかだろう。だが彼には妊娠中の妻がいる状況。自分が逮捕、収監されてしまうようなことになれば、新しく生まれてくる子どもや妻に精神的、経済的に大きな負担をかけることになってしまうのも事実だ。飲酒運転の前歴を考えれば、終身刑の可能性も出てくる。事件のことを黙っていれば、その未来は回避できるのである。
ケンプが真実を話すことを逡巡したまま、裁判や陪審員たちの討議は進んでいく。主人公が真実を解き明かしていくといったストーリーは世に溢れているが、真実を解き明かしたい人々のなかで主人公だけが重大な事実を知っていて、なんとかその議論をコントロールしようと誘導していく流れは、興味深い展開である。