『まめ夫』の元夫たちは“妖精”? とわ子の命題を通して描かれた、矛盾を肯定する生き方
急にできた空き時間や訪れた休日に、携帯に手を伸ばして誰かに連絡するか1人のまま自由に過ごすか考える時、ふと思い出す大豆田とわ子の言葉。「1人で生きていける、けど〇〇〇」。彼女をはじめ、その周りに存在する登場人物たちの言葉が日常のふとした瞬間に反芻する。先日最終回を迎えた『大豆田とわ子と三人の元夫』(カンテレ・フジテレビ系)は放送を終了してもなお、未だに生活の中に溶け込んで私たちに思考させるようなドラマだった。
本作は40代、3回の結婚歴と離婚歴を持つ大豆田とわ子(松たか子)が4度目の結婚を意識する出会い、そして同時期に再会した3人の元夫との交流から始まる。その出会いの相手は結局、結婚詐欺師だったわけだが、それに伴い残された三人の元夫の誰かと復縁し、4度目の結婚に向かっていくものかと思われた。しかし、物語は始めからそういうものではなかった。もちろん、彼女が再婚を意識していたのは確かだが、その意識の根深い部分にある命題「1人で生きていける、けど〇〇」について考えるとわ子の一時の迷い、回り道の過程を描く物語だったのだ。最終回を観て、本ドラマが描いたものについて少し考えたい。
とわ子の向き合ってきた命題と得た答え
とわ子の迷い、それは幼少期に母親・つき子から投げかけられた言葉「とわ子はどっちかな? ひとりでも大丈夫になりたい? 誰かに大事にされたい?」に起因するものだった。社長の身として日々忙しく、もういい歳だし何でもある程度ひとりでできる(“網戸を直す”こと以外は)、そんな彼女だったが、ドラマの中で何回も日常に潜む「めんどくさい」に辟易としている。自分でお湯を沸かしたり、電気をつけたり、そんなちょっとしたことがたまにしんどい。誰かに頼りたい、もう1人でいたくない……いや、誰にも頼らず1人でいれるけれど。そんな風に「矛盾」をはらんだ感情の堂々巡りに彼女が時より苦しんでいるように見えるのは、そもそも投げかけられた母の言葉が“どちらかを選ばせる”ものだったからではないだろうか。
それはまるで、1人でも生きていけることが“強さ”であり、誰かを求めることが“弱さ”であるかのような問いだ。異性と結婚して家庭に入ること、男性に頼って大事にされることが女性の幸せだという「固定観念」があった時代を生きたつき子だからこそのものだ。もしかしたら、彼女も自分の母親から同じ問いを受け取ったのかもしれない。それは女性の社会進出が進みつつある時代で強くあろうとしてきた娘とわ子に渡されたと同時に、多様性がすでに前提となっている世代の孫・唄(豊嶋花)にも託されていく。
母の恋文を見つけた2人が会いに行った母の恋人のマーが、國村真(風吹ジュン)という女性だったことが一種の“サプライズ”として描かれたこともあるが、何より彼女が「自分と一緒にならなくて正解」と言わされてしまったことが悲しい最終回のワンシーン。ここで改めてつき子の問いを考えると、「1人で大丈夫」だったのはマーで、「誰かに大事にされたい」を選んだのは彼女自身だったわけだ。でも本当は、なにかにすがりつかなくても、大体なんでもこなせる人だったというつき子も、前者のはず。彼女も娘とわ子と同じように葛藤があったのでは、と想像してしまう。
今の時代なら、どちらかではなく、どちらも選びとることができたかもしれないが、彼女たちの生きた時代の価値観は違う。そして私たちは、頭の中ではわかっていても、未だに二つを選び取ることが矛盾していて、どちらかが間違っているのではないか、という古びた価値観に縛られてしまうことだってある。だから、とわ子も自分が“どちら”なのか迷っていたのではないだろうか。何より興味深いのは、男尊女卑の考えが薄くなりジェンダーに対する考えも比較的フラットな世代の唄が、逆に16歳にして男性に全てを託すために「いい奥さんの練習」をしていること。「おばあちゃんの生きた人生は、私の未来かもしれない」という彼女はどちらも選び取れるのに、いや、むしろだからこそ、憎たらしい西園寺くんを“教育”すればいいのか、ママのように1人で生きていくのが幸せなのかわからない。皆、“現代における女性の生き方の正解”を探っている。
恋文の登場により、とわ子がわからなくなってしまったことは、もう一つある。自分が、本当に母に愛されたのかということだ。これまで信じてきたものが突然崩れてしまう。それは、一種のアイデンティティの揺らぎに繋がる。だからこそ、マーがかけた「あなたのお母さんは娘を、家族を愛している人だった」という言葉に涙が溢れたのだ。
「どうしてだろうね。家族を愛していたのも事実、自由になれたらと思っていたのも事実。矛盾している。でも誰だって、心に穴を生まれ持ってきてそれ埋めるためにジタバタして生きているんだもん。愛を守りたい。恋に溺れたい。1人の中にいくつもあって、嘘じゃない。どれも、つき子」
この言葉のおかげでようやく、どちらかを選ぶことの呪縛から解放されたとわ子は、笑顔になる。実はすでに、選んだり分けたりすることから自分を解き放っていた彼女ではあるが、それでも不安だったはずだ。矛盾を抱えて生きていくことは、不安だ。だから、抱えて生きていくにはそれを肯定する必要がある。自らそれを肯定することも大事だし、何より他者から肯定されることの方が時にはずっと力強い。実はつき子は、マー以外にもう“三人”の肯定者をすでに、とわ子の元に送り込んでいた。