『名探偵コナン』は平成の時代をどう描いた? 「真実はいつもひとつ」に込められた二重性

 物語評論家のさやわか氏の著書『名探偵コナンと平成』(コア新書)が、現在発売中だ。

 『名探偵コナン』は、1994年に連載がスタートし現在原作は96巻まで刊行されたご長寿シリーズ。アニメ、映画、時には実写化と様々なメディアミックスが展開され、日本を代表する国民的作品となった。本書では、その『名探偵コナン』をヒントに、平成という時代を推理している。

 著者であるさやわか氏に、劇場版シリーズの人気の理由や23年間の歴史、これから始まる令和時代の展望などを中心に話を聞いた。

平成の足踏み状態を『コナン』は象徴している

『名探偵コナンと平成』(コア新書)

――『名探偵コナン』(以下、『コナン』)と平成が結びつくと考えたきっかけを教えてください。

さやわか:単純に設定が変わっているなと思ったんです。これだけ長く続いているシリーズなのに時間が進んでいなかったり、たくさん殺人が起きているというのはよく言われるところですけど、「似たような作品って他にないじゃん」と。最初は、たとえば『こち亀』(『こちら葛飾区亀有公園前派出所』)なんかは、その時代の風俗やテクノロジーなどを両津勘吉が持ち出して、最終的に大原部長に怒られるという定番の展開がありますが、時代とともに変遷していく作品という点では似ているんじゃないかと思ったんです。でも、『こち亀』は作中時間がいつなのか限定していない。ところが『コナン』は明確に「なりたいんだ!! 平成のシャーロック・ホームズにな!!」と宣言していて、しかもそれが主人公の目的に結びついているんですよね。さらに新一は時間を止められてしまっていて、意図的に子どもみたいな状態に据え置かれていることを考えると明らかに意味深い。平成という時代は語りにくいとか、昭和に比べて捉えどころがないと言われますが、まさにその足踏み状態を『コナン』は象徴しているんじゃないかと。

――本書では、原作者・青山剛昌さんの原体験と映画文化との関連性も指摘されています。

さやわか:『踊る大捜査線』の時に、いわゆる映画からテレビ映画への変遷という語られ方がよくされていました。本書でも『「踊る大捜査線」は日本映画の何を変えたのか』(幻冬舎新書)を引用しましたが、そこに『コナン』が同時期に成立しているという話を挟むことでよりわかりやすくなる。『コナン』の作中には、映画館がシネコンに変わっていくといった時代性みたいなものが書いてあって、時代の変遷を描きながら映画というものを語れるようになっているんです。

――そこには青山さん自身の映画への愛が反映されていると。

さやわか:そう思います。『踊る大捜査線』の2作目では、お台場をテーマパークとして捉えているのですが、その後思ったほど人が住まなくて、副都心として栄えなかったという平成時代のネガティブな部分を描ききれていないんです。でも『コナン』は移りゆく都市の寂しさを描いてしまいます。作中に登場する映画館も昔ながらのさびれた映画館からシネコンに変わるんですが、「じゃあ、あの映画館のおじさんはどうなったんだろう」と思わされるんです。シネコンの話では、映画はカップルで見るだけではなくて、1人で訪れる人が増えており、さらに、1人で来た白鳥警部が、同じく1人で来た女性と恋に落ちるかと思いきや、その女が犯人だったという話もある。そういったシネコンに来れば夢が訪れるわけでもないというところも、無意識に描いてしまっています。

――なるほど。

さやわか:青山さんは良い意味でも悪い意味でも、おそらく社会を風刺しようとは思っていないのではないでしょうか。黒の組織が悪いやつだとしても、そこで「悪とはいったい何か?」 というシリアスな問題を描くのではなく、あくまでエンタメでやろうと思っているはずなんです。ところが、無意識に世相が反映されてしまう。たとえば第4章に書いた「殺人犯にどういう人間が多いか」という部分には、青山さんは意識していないでしょうけど、結果として、平成時代の「悪」の姿を提示する形になっています。

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