なぜ村上春樹のヒロインは「青いワンピース」を着ると消えてしまうのか? 『夏帆』の衣装から見えてくる死生観

村上春樹が仕掛ける衣装演出

すべての小説家は、孤独なスタイリストである。
映画やドラマの撮影現場であれば、衣装合わせの時間がある。衣装部が知恵を絞り、画面に映るすべての服に責任を持つ。小説家には、そんな時間もスタッフもない。作家はスタイリスト不在のなか、登場人物の服を一人きりで用意する。
小説が他の物語空間と決定的に違うのは、主人公たちの服を省略できることである。逆にいえば、小説においては、書き込まれた服にはすべて意味がある。一見なんでもない服が描写されている場合でも、それは主人公の暮らしや人間性を指し示し、その後おとずれる日常生活の危機や人間関係の変化を下支えするのである。
物語に影響を与えない服が、わざわざ書き込まれることはない。書かれない服は徹底的に省略され、書かれた服からは、それぞれに演出意図を発見することができるのだ。
小説家がどんな服を描き込み、逆に描き込まないか。作家の生理的な分別が、意識と無意識の両方が、登場人物の衣服を描く際に如実に現れる。
村上春樹がすごいのは、そこに死生観すら現れることだ。かつて映画の衣装部で働き、フィクションにおける衣服を研究してきた私の目から見て、村上春樹は「超一流のスタイリスト(演出家)」である。主人公がおしゃれな服を着ているといった次元の話ではない。彼は、登場人物の衣装を使って、物語の緊張感やキャラクターの運命を冷徹にコントロールしている。
つまり、衣装部の目線で村上春樹の物語を読んでいくと、驚くほど図式的な死生観が、ファッションによって演出されていることに気がつくのだ。特定の衣装が繰り返し登場し、その色によって登場人物の運命が左右される。ここまでストイックに衣装にこだわる作家を私は他に知らない。
では、村上は衣装でどんな演出をしているのか。映画衣装部としての私が、村上作品のクローゼットをひっくり返して最も戦慄したのが、不吉な「青いワンピース」の存在である。それは村上作品において、明確に「死のドレス」として機能しているのだ。

主人公の前から「いなくなる」女性たちは、いつも青いワンピースを着ている。『ノルウェイの森』の「ハツミさん」は「深いブルーの素敵なワンピース」を。『スプートニクの恋人』の「すみれ」は「ネイビーブルーの半袖のワンピース」を。『国境の南、太陽の西』の「島本さん」は「青い絹のワンピース」を。『海辺のカフカ』の「佐伯さん」は「青い半袖のワンピース」を。
消えていく女性たちは、みんな青いワンピースを着ている。さらにいえば『ねじまき鳥クロニクル』で主人公のもとを去る妻も、『ダンス・ダンス・ダンス』のキキも、青いワンピースを着ている。これは偶然だろうか。
青いワンピースを着ると「あちら側」に行ってしまう。しかし、危険な色は青だけじゃない。衣装の色に注目しながら読んでいくと、淡い緑色、ミントグリーンにも注意が必要なことがわかってくる。女性の登場人物がそれらの色を着ていると、不吉な予感が漂うのだ。淡い緑色を着た女性も、主人公の目の前からいなくなってしまう可能性を秘めている。
『色彩のない多崎つくると、巡礼の年』では「沙羅」が、「ミントグリーンの半袖のワンピース」を。『街とその不確かな壁』では「きみ」が、「ノースリーブの淡い緑色のワンピース」を着ている。「沙羅」にも「きみ」にも、主人公は会えなくなる。いよいよワンピースの色が法則めいてくる。青と同様の「死の効果」が、淡い緑色にもあるのだ。
そして同じ「死の効果」は、パジャマの色にも当てはまる。青や淡い緑のパジャマをきた女性たちも「あちら側」にいってしまうのだ(※1)。
※1 嘘のような話だが、『スプートニクの恋人』の「すみれ」は姿を消したとき、ペール・グリーンのパジャマを着ていた。『ねじまき鳥クロニクル』の妻は、青い無地のパジャマを。『1Q84』のふかえりも、青無地のコットンのパジャマを着ている。ふかえりも、妻も、主人公のもとを去っていく。『アフターダーク』の主人公の姉も、青いパジャマを着て眠ったまま何年も「あちら側」にいる。これはみんな、青いパジャマを着ているせいだろうか。ここまでくると、偶然とは思えない。
「死」のワンピースから「生」のパジャマへ

これらの衣装が「死」を象徴しているように、「生」をあらわす衣装も登場する。
生のワンピースは、何色をしているのだろう。その答えは、最新長編『夏帆』の衣装演出に見られる。この作品には、ワンピースは出てこないが、パジャマは登場する(村上春樹の長編小説でワンピースが登場しないのは、今作と『アフターダーク』だけである。)。そして、そのパジャマは「生」をあらわす色をしている。
『夏帆』は、主人公の衣装の数が圧倒的に少ない点で村上作品の中において異色である。と、同時に、これまで以上に衣装が物語の鍵を握っている。テーマを一言でいえば、母と娘の物語のなかで、あちら側にいってしまいそうな母親を、娘がなんとかしてこちら側に取り戻す姿を描いている。あちら、こちら。その境界線のせめぎあいを、村上春樹は衣装をつかって緊張感をもたらしている。
今作では、母親が「シロアリの女王」に乗っ取られてしまう事件が主軸になっている。この乗っ取りを予感させるのが母親のファッションの変化で、そこにフォーカスを合わせるために、母親以外の衣装が念入りに「省略」されている(※2)。
主人公である夏帆は絵本作家で、会社勤めはしていない。ファッションには無頓着で、母親に心配されている。
夏帆は服装に気を遣う方ではない。日常的にはジーンズとスニーカーとスエットシャツがあればそれで事足りる。(略)あらたまった面倒な服装とか化粧とかは苦手だ。母親は「あなたも年頃の女性らしい、もう少しまともな服装をすれば」としばしば文句を言っていたものだ。
村上春樹は、ジーンズとスニーカーとスエットシャツがあればそれで事足りる女性を繰り返し描いてきた。村上作品に女性が登場する場合、「あちら側」にいってしまう場合と、「こちら側」に残るパターンがある。こちら側に残る女性の多くは、ジーンズとスニーカーと野球帽をかぶっている。『アフターダーク』の主人公である浅井マリ、『ノルウェイの森』の緑、『ダンス・ダンス・ダンス』のユキ、『海辺のカフカ』のさくらなどである。今作の夏帆は、彼女たちの総決算のような人物になる。
※2 村上春樹は本来、登場人物が着替えるシーンで衣服を丁寧に描写する作家である。ところが今作では徹底的に着替える描写を省略している。夏帆の場合は「そっくり新しい服に着替えた」「服を着替え」としか書き込まれない。どんなアイテムを着たのかを描かかないことで「服装に気を遣う方ではない」という夏帆の性格を描きつつ、母親の服装の変化が際立つような衣装演出をしているのである。
衣装部を唸らせる、意図された「曖昧さ」

そんななか、母と娘をめぐる物語で、二人の対比は服装によってなされる。主人公の服だけではなく、禁欲的なまでに服装の描写が少ないため、「母親の中身が入れ替わったと夏帆が考える根拠のひとつに、服装の大胆な変化があった」という展開が際立つのだ。そしてその変化は、夏帆が面倒だと感じる「あらたまった服」にあらわれる。
浦和の実家に帰ってきて母親と顔を合わせてまず最初に気づいたのは、服装がずいぶん派手になったな、ということだった。近所までちょっと外出するときにも、あらたまった服に着替え、アクセサリーをつけ、化粧をした。昔はいちいちそんな面倒なことはしなかったはずなのに。
たしかに、母親は身なりには常に気を遣う方だった。それでも派手に着飾るようなことはなく、むしろシンプルな服を上手に着こなすのが彼女の特徴だった。外見をほとんど描写されない夏帆にくらべると、母親の見た目は詳しく語られる。簡素な身なりでも、むしろそれが華やかで気品のある印象を与えていたわけだ。シロアリの女王に乗っ取られる前は、「彼女が選ぶドレスは無地、淡色のものがほとんどだった」と語られる。ドレスが詳しく描写されていないことが重要だ。この曖昧さは演出である(※3)。
無地、淡色のドレスを普段選んでいたからこそ、娘は母親の変化に気がつく。
「お友だち」に会うときに彼女が着ていく洋服は、目立ってカラフルなものだったし、柄もまた大胆なものが多かった。夏帆はその手の衣服に関してはほとんど知識はないが、素材やデザインが繊細で手が込んでいることは一目で見て取れたし、かなり高価なものであることに間違いはないだろう。いわゆる「ブランドもの」だ。母親の身にいったい何が起こったのだろう?
夏帆は、母親の衣服の変化や、普段は使わない「夏帆ちゃん」という呼び名から、シロアリの女王が母を乗っ取りつつあることを確信する。そして物語の終盤で、夢の中でシロアリの女王と対決する。そのとき、シロアリの女王はスーツを着ている。
シロアリの女王は白いスーツを着ていた。暗闇の中でもそれがシャネルのスーツであることを見て取ることができた。香水の匂いも嗅ぎ取れた。特徴的な香りだが、香水に縁のない夏帆にはブランドまではわからない。
母親の姿をしたシロアリの女王がワンピース姿やドレス姿ではないことが非常に大切だ。繰り返しになるが、村上春樹の長編小説でワンピースが描写されたら、私たちは警戒しなくてはならないのだ。もし青や淡い緑のワンピースを着ていたら、その登場人物は主人公の前からいなくなってしまう
シロアリの女王は、白いシャネルのスーツを着ている。色で韻を踏んだ衣装演出に頬を緩ませていると、緊張感のある衣装が登場する。夏帆はスカーレット・ヨハンソンという名前の猫に導かれ、母親の寝室にいく。母親を「こちら側」に取り戻すために、アイスピックのような小ぶりな刃物を、シロアリの女王の胸に突き刺すのである。そうすることでしか母親を救えないからだ。
夏帆は考えをまとめる余裕もなく、反射的にスカーレット・ヨハンソンの指示に従った。母親の身につけたつるりとした絹のパジャマのボタンを上からひとつずつ外し、下まで外し終わると左右に衣服を開き、胸をはだけた。
要注意だ。母親がパジャマを着ている。法則が起動する。もし、青や淡い緑色だったら問題だ。と警戒しつつ、よく読むと素材が書かれているだけで色は指定されていない。物語はここでクライマックスを迎えるが、我々は翌朝のシーンに飛ぶ。パジャマの色を確かめるために。
母親はダイニングにいた。食卓の前に座り、寛いだ様子で新聞を読みながら緑茶を飲んでいた。昨夜着ていたのと同じ、つるりとしたベージュの絹のパジャマの上に、格子柄の木綿の部屋着を羽織っていた。
ベージュである。クライマックスでは抜け落ちていた色が、翌朝には指定されている。これを小説的演出といわずなんといおう。なぜならベージュは「生」の色だからである。
※3 今作では「ドレス」という言葉が二度、登場する。しかし、そのどちらにも色や柄の指定がない。もう一つのドレスは、夏帆が実家に戻って感じた居心地の悪さを描写するさいに、たとえとして登場する。「身の回りのあらゆるものが──形を持つものも持たないものも──サイズの合わない借り物のドレスのように、今ある彼女には馴染まなかった」。服に無頓着な夏帆の心情を、ふだん着ないドレスで説明する。一見ちぐはぐな比喩にも思えるが、「あらたまった服」と同様に、母のドレスの着こなしを念頭においた対比になっている。母娘の緊張感を、見事に衣装で演出している。
なぜ決定的な場面で色が抜かれたのか?
青や、淡い緑が「あちら側」を表す色で、ベージュは「こちら側」を表す。急には飲み込めない話かもしれない。なぜベージュが「生」の色なのか。
図式的な話になるが、ベージュは青(ダークブルー)の補色である。補色とは、色相環上で正反対に位置する二色の組み合わせのこと。つまり、円環の一点がベージュの場合、環の反対に青がくる。死と生が向き合っているのである(※4)。
『夏帆』でも、シロアリの女王に乗っ取られた状態の母親は、ベージュの服を着ていた。夏帆は最終対決の前にも一度、シロアリの女王と対峙している。目の前にいる女性が母なのかシロアリの女王なのか、夏帆には判断がつかなかったが、その時の母親の服装は「ベージュ色のスタイリッシュな細身のスーツに、艶やかな栗色のハイヒールという格好」だった。結果的に、スーツの色がベージュであることで、母親はこちら側にとどまることができていたと考えられる。そしてなによりも重要なのは、シロアリの女王を打ち負かしたときに着ていたパジャマがベージュであることだ。
では、なぜクライマックスの場面では絹のパジャマとしか描かなかったのか。思えば、母親のドレスも、無地で淡色としか描かれていない。決定的な場面で衣装の色を抜く。これは、ワンピースやパジャマの色が、あちら、こちらを決めてしまうことへの反動だ。あまりにも強固な死生観のルールがあるために、『夏帆』では作家本人も、色のついたパジャマを着せることができなかった。ここが、これまでの村上作品との大きな違いである。
これまで村上春樹は、主人公の男性が、あちら側にいって、こちら側に帰ってくる物語を書いてきた。しかし、あちら側にいって、こちら側に帰ってくる女性は書いてこなかった。あちら側にいくか、こちらにとどまるか。女性たちの未来はそのどちらかに決まっていて、行く末に対応する形で女性たちのワンピースやパジャマには色がついていた。
『夏帆』は、あちら側にいってしまいそうな母親を、こちら側に取り戻す物語である。自分はこちら側にいたまま、あちら側に母を連れていこうとするシロアリの女王と対決する。その瞬間は、村上春樹が初めて描く場面なのだ。あちら側と、こちら側。どちらにいくのか。母親は戻ってくることができるのか。作者本人にも、見えていない。だからクライマックスの最中には透明なパジャマを着せるしかなかった。衣装の色を描かないことが演出になるのは、小説にしか、そして村上春樹にしかできない芸当だ。

これらが意図的なスタイリングであると思うのは、もう一つの「死」の色である淡い緑の補色も、村上春樹の長編小説で「生」の色として登場するからだ。ペール・グリーンの補色はピンクである。村上春樹は、ピンク色のワンピースが登場人物を護ってくれる場面を描いている。
『騎士団長殺し』の秋川まりえは、13歳。免色という男性の家に忍び込み、とある部屋のクローゼットに隠れる。そこで「こちら側」と「あちら側」の境目に立たされる。免色の姿でありながら、邪悪な力に乗っ取られた人物が、侵入者の存在に気がつき、家のなかを点検してまわる。秋川まりえは、クローゼットで息を潜めながら「ここにある衣服が諸君を護ってくれる」と語った騎士団長のセリフを思い出す。
彼女は手を伸ばして、目の前にある花柄のワンピースの裾にさわった。ピンク色の生地は柔らかく、指に優しかった。彼女はしばらくのあいだそれをそっと握っていた。その服に手を触れていると、どうしてかはわからないけれど、少しだけ心が休まるようだった。
秋川まりえは思う。「ひと揃いのイフクたちが私をくるむようにして護り、私の存在を透明なものにしてくれるのだ。私はここにいない。私はここにいない」と祈るようにして触れるワンピースが、ピンク色をしている。繰り返す。ピンクはペール・グリーンの補色である。
死を表す青、ペール・グリーン。生を表すベージュとピンク。それぞれが補色であることは偶然だろうか。いや、違う。これは極めて優れた衣装感覚の持ち主による明確な演出だ。
色相環の上で正反対に位置する色。中間の抜け落ちた生と死の補色たち。『ノルウェイの森』で登場した「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。」という問いかけが、衣装の色で繰り返し描かれてきた。
※4 村上春樹の長編小説では、幽霊のような、生きているか死んでいるかわからない女性が登場する。たとえば『国境の南、太陽の西』の「島本さん」や、『海辺のカフカ』の「佐伯さん」である。半分あちら側にいってしまっているようにも感じる彼女たちの衣装では、死と生の色がコーディネートされている。「島本さん」は「青い絹のワンピースの上に、淡いベージュのカシミアのカーディガン」をかけていた。「佐伯さん」は「青い半袖のワンピースを着て、そのうえに薄いクリーム色のカーディガン」を羽織っているのだ。死と生の補色を着ている。偶然にしては図式的な配色だ。
デビュー作『風の歌を聴け』に刻まれた宿命

では、死と生の色があることが偶然ではないとして、青と淡い緑にそんな意味合いが付与されたのは、いつからなのか。
朗報がある。デビュー作の『風の歌を聴け』にすでに書き込まれているのだ。「僕は21歳で、少くとも今のところは死ぬつもりはない。僕はこれまでに三人の女の子と寝た」と語るなかで、最初の女の子は高校のクラス・メートだったことが明かされる。主人公とその女性は、朝日新聞の日曜版の上で抱き合った。そのとき彼女が脱いだのは、淡い緑のサッカー地のワンピースだったのだ。
淡い緑のサッカー地のワンピースを着た女性と、主人公は二度と会えなくなる。村上春樹の最初の小説のなかで、主人公が最初に寝た女の子が淡い緑のワンピースを着ていた。もちろん偶然ではない。ワンピースの色が宿命めいてくる。
ヒロインともいえる「小指のない女の子」を自宅に送った翌朝、泥酔して記憶をなくした彼女との会話のなかで主人公は洋服を手渡す。主人公はクローゼットをあけてワンピースを選ぶ。何色が選ばれるのか、もう見当がつくのではないだろうか。
「着るものを取って。」
「どんな?」
彼女は煙草をくわえたまま、もう一度眼を閉じた。「何んだっていいのよ。お願いだから質問しないで。」
僕はベッドの向い側にある洋服ダンスの扉を開き、少し迷ってから袖のないブルーのワンピースを選んで彼女に手渡した。彼女は、下着もつけずに頭からすっぽりとそれをかぶり、自分で背中のジッパーをひっぱり上げてもう一度溜息をついた。
袖のないブルーのワンピースを手渡した。だからもう会えなくなる。死生観の法則はデビュー作にすでに書き込まれていた。
村上春樹の長編小説はオープンエンドであることが多い。物語の最後に、ヒロインと電話をして会う約束をする。会えるか会えないかは描かれない。しかし、衣装が宿命めいているせいで、死のドレスを着てしまった彼女たちには、もう会えないと思ってしまう(※5)。
映画衣装部による、極端な読み方かもしれない。が、指刺せる事実として、あちら側にいってしまう女性と、こちら側にとどまる女性の衣装を、村上春樹は描き分けてきた。ワンピースとパジャマ。同じアイテムでも、死の色と生の色が、円環の上で向き合うように明確に定められている。これほど明確に定められた生と死のドレスコードの存在を知った今、私たちはもう、以前と同じようには村上春樹の小説を読めないはずだ。村上春樹が描き分ける女性たちの衣装に、運命の予兆を感じずにはいられない。
もちろん、スタイリストとしての村上春樹の仕事は、これで全てが解き明かされたわけではない。「あちら側」へ行ってしまう男性たちのファッションには、一体どんなルールが隠されているのだろうか。死のチノパンや生のシャツはあるのだろうか。宿命の起点を求め、デビュー作『風の歌を聴け』の「鼠」の衣装へと、再びクローゼットをひっくり返す旅に出よう(※6)。
言葉によって衣服を現前させ、あるいはあえて色を抜き、登場人物の運命を保留すること(※7)。小説にしかできない、そして村上春樹にしかできない見事なスタイリングの魔法に、これからも衣装部として立ち会っていく。
※5 たとえば『色彩のない多崎つくると、巡礼の年』では「沙羅」が「ミントグリーンの半袖のワンピース」を着てしまっている。これはバッドニュースだ。ほかにも、『スプートニクの恋人』の「すみれ」も、物語の最後に主人公に電話をかけてきて会う約束をする。しかし「ネイビーブルーの半袖のワンピース」を着てしまっている。さらにいえば「ペール・グリーンのパジャマ」も着てしまっている。絶望的だ。もし彼女たちが違う色を着ていたら。青や淡い緑のワンピースではなく、ピンクのワンピースやベージュのパジャマだったら、主人公は約束通り、もう一度ヒロインに会えるかもしれない。
※6 『風の歌を聴け』の「鼠」以外にも村上春樹は「あちら側」にいってしまう男性たちを繰り返し描いてきた。『ダンス・ダンス・ダンス』の五反田君。『ねじまき鳥クロニクル』の綿谷昇。『アフターダーク』の白川。『騎士団長殺し』の免色渉。「あちら側」と「こちら側」を行き来することもある彼らは、どんな服を着ているのだろう。
※7 衣装演出として色を抜いたパジャマは、他の作品にも登場する。『街とその不確かな壁』に登場する男の子は、イエローサブマリンの絵のついた緑色のヨットパーカを着ている。彼はパジャマを着たまま失踪する。パジャマを着て消えてしまうのは『スプートニクの恋人』と同じパターンだが、「すみれ」がペール・グリーンのパジャマを着ていたのとは違い、この少年の着ていたパジャマの色が明らかになることはない。その後に判明するのだが、この少年は「あちら側」と「こちら側」を行き来する存在だ。そのため、意図的にパジャマの色の描写が避けられている。ここでもまた、村上春樹は透明なパジャマを着せ、少年の運命を保留しているのである。























