村上春樹、長編小説『夏帆』で問われる“女性の描き方” 母娘関係を描きながらも揺らがぬ部分とは?

村上春樹『夏帆』の注目ポイントは?

 村上春樹の新作長編小説『夏帆─The Tale of KAHO─』を、新潮社が7月3日に発売すると発表した。村上は2024年から2026年まで、イラストや絵本の仕事をしている夏帆という26歳の女性を主人公にした4編の連作を発表してきた。『夏帆-The Tale of KAHO-』は、それらに加筆修正を施したものだという。本が発売される前に連作をふり返っておきたい。物語の展開に触れているので、先入観なしに新刊『夏帆-The Tale of KAHO-』と向きあいたい人は、読まないでほしい。

 連作は、ややこしい始まり方をしていた。最初の短編「夏帆」は、2024年3月に早稲田大学で催された「村上春樹×川上未映子 春のみみずく朗読会」で村上自らが朗読した新作だった。その際にあわせて披露された川上の「わたしたちのドア」とともに「夏帆」は、「新潮」2024年6月号に掲載された。その後、同短編の登場人物のセリフや表現を加筆修正した別バージョンの「夏帆」が「文芸ブルータス 2025 夏」に掲載され、それの続きとして連作が書かれていった。

 改稿版をもとに最初の短編を紹介すると、夏帆が10歳くらい歳上の初対面の男・佐原に「正直いって、君みたいな醜い相手は初めてだよ」と失礼なことをいわれる場面から物語は始まる。夏帆の心の動きを読みとっているかのごとき佐原に対して彼女は、細長い舌で白蟻の巣を舐めつくすアリクイを連想した。好奇心から夏帆は再び佐原と会うものの、彼が出会った女性すべてに「醜い」と告げ、反応を見てきたと知り、不快に思う。一緒にバイクに乗ろうと誘われるが断り、もう佐原とは会わないと決める。その後、夏帆は、自分の顔を探しにいく少女の夢を見て、それを絵本にする。物語には、アリクイの夫婦が登場していた。以上が、短編「夏帆」の概要だ。

 絵本での顔を探すモチーフやアリクイ夫婦の登場が、佐原から「醜い」といわれたことから触発されたものであるのは明らかだろう。「新潮」2024年6月号から「文芸ブルータス 2025 夏」への「夏帆」の改稿では、アリクイへの言及が増やされていた。「夏帆」に出てきたアリクイ、白蟻は、続く連作では「ありくい」、「シロアリ」と表記され、物語のキーとなっていく。

 「新潮」2025年5月号掲載の「武蔵境のありくい -〈夏帆〉その2」では、夢のようだが明瞭に現実と感じられる状態で、ありくいの妻と対面する。彼女から提言された通り、夏帆は武蔵境の一軒家に引っ越す。家の床下にはありくい夫婦が住んでおり、彼らからいくつかの依頼をされる。「新潮」2025年11月号の「夏帆とシロアリの女王 -〈夏帆〉その3」では、夏帆の母親の身体が何者かに乗っとられていることがわかり、「新潮」2026年3月号の「夏帆とモーターサイクルの男、そしてスカーレット・ヨハンソン -〈夏帆〉その4」では、夏帆の母殺し/母との和解というテーマがさらに掘り下げられていく。

 そのように進む物語において夏帆は、佐原のモーターサイクル(彼はバイクのことをそう呼ぶ)の音が自分に接近することを警戒している。一連の物語は、佐原との出会いが起点となっており、モーターサイクルの音の気配が、背後で不気味さを漂わせ続けるのだ。「夏帆とモーターサイクルの男、そしてスカーレット・ヨハンソン」と題された通り、連作最後の第4作の前半では佐原が再登場する。だが、思わせぶりに意外なことを告げた彼は、すぐ後景に退く。その後、佐原についてはしばしば言及されても、物語は娘と母の関係に力点を移したまま、彼との問題は決着しないまま連作は終わってしまった。そこは釈然としないし、今度の単行本化で加筆されるのではないかとも思う。

 その近刊『夏帆-The Tale of KAHO-』の告知では、「女性を主人公にした初の長編小説」と銘打っている。『1Q84』3部作では、青豆という女性主人公が登場したが、彼女の場合、天吾とダブル主人公であり、3部では牛河も主人公になったので、長編の単独主人公は夏帆が初めてという意味なのだろう。

 「夏帆」連作は、この世のものではない存在や動物が人間と同格で登場する、かけ離れた領域をつなぐ不可視の通路がある、異次元で邪悪な存在に暴力を行使して事態を決定的に変える、主人公が一連の不思議を受け入れる――といったファンタジー要素を骨格とすることが、過去の村上の長編(『ねじまき鳥クロニクル』とか『海辺のカフカ』とかいろいろ)と共通する。ポップ・ミュージックでビーチ・ボーイズ、クラシックで「ブランデンブルク協奏曲」、海外文学でジャック・ケルアックなどに言及し、猫にスカーレット・ヨハンソンと名づけるあたりも、これまでの流儀を踏襲している。主人公が女性になっても、1人で暮らすことを苦にせず、それを自然な状態と受けとめる姿勢は、過去の主人公と変わっていない。

 村上の小説は、これまで女性の描き方について、しばしば批判されてきた。インタビュー集『みみずくは黄昏に飛びたつ』では、聞き手の川上未映子がそれらの批判を踏まえ、女性が性的な役割を担わされ過ぎていないかと、村上に問うていた。そうした批判を意識したのか、「夏帆」連作は女性を主人公にすえ、後半では娘と母の関係がクローズアップされた。この連作では、主人公自身が性的体験をするのではなく、母が性的に放縦となり、父だけでは足らず多くの婚外交渉をしているのではないかと疑う展開になっている。村上は『海辺のカフカ』などで父殺しのテーマを書いたが、初の単独女性主人公は、母娘関係に初めて正面からとり組むということでもあっただろう。それが、女性の描き方への批判に応えるものになったかどうかは、完成品としての『夏帆-The Tale of KAHO-』が刊行された際の1つの論点となるだろう。

 ただ、『みみずくは黄昏に飛びたつ』で作中女性の性的役割を問われた村上は、こう答えていたのだ。「男性であれ女性であれ、その人物がどのように世界と関わっているかということ、つまりそのインターフェイス(接面)みたいなものが主に問題になってくるのであって、その存在自体の意味とか、重みとか、方向性とかそういうことはむしろ描きすぎないように意識しています」。批判側からすると、答えになっていないと感じられる返答だろうが、村上作品の成り立ち方をよく示した言葉ではある。

 周囲で起きる不可解な出来事について「夏帆とシロアリの女王」で夏帆は、ありくいの妻から「なぜならば、これはあなた自身の世界の物語であるからです」といわれていた。その言葉は、次の「夏帆とモーターサイクルの男、そしてスカーレット・ヨハンソン」では「あなたはあなた自身の物語る世界の中心にいる」というフレーズに変奏されて反芻される。主人公をとり巻く様々な要素には、現実とは異なる領域におよぶ特殊な因果関係があり、関係の総体を本人が引き受けなければならない。その人の責任として、暴力など超法規的なものも含む行動を選ばなければならない。「夏帆」連作に限らず、村上の長編にはそうした形で「その人物がどのように世界と関わっているかということ、つまりそのインターフェイス(接面)みたいなもの」、「あなた自身の世界」を書いたものが多い。

 自己責任論の多くには、周囲や社会が背負うべきものを背負わず責任を個人に押しつける傾向がある。一方、村上長編では、超現実的な「インターフェイス(接面)」でつながった「あなた自身の世界」があり、そこで主人公が事態を変える決定的な行動を選ぶ。「夏帆とモーターサイクルの男、そしてスカーレット・ヨハンソン」には、夏帆が「英雄は試練を必要とするものだ」という議論を思い浮かべる部分がある。それに対し、村上長編の主人公がくぐり抜ける試練とは、「あなた自身の世界」で自己責任をまっとうするというものなのだ。周囲や社会の現実やしがらみとは関係なく、自分の世界でそれを行う達成感が、読む者にある種の快感をもたらすのでもある。村上作品のその核は、女性単独主人公の「夏帆」連作でも揺らいでいない。

 村上春樹は、村上春樹であることを完遂しようとしているようだ。

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