翻訳家・柴田元幸に聞く、『サリンジャー初期短篇全集』の魅力「“vulnerable”な感覚、つまり脆さや弱々しさがある」


翻訳の名手で、村上春樹の盟友としても知られる柴田元幸訳『サリンジャー初期短篇全集』(河出書房新社)が好評発売中だ。柴田訳のサリンジャーといえば、珠玉の短篇集『ナイン・ストーリーズ』(河出文庫)も印象深いが、今回はそれより前、彼がデビューした1940年から48年のあいだに雑誌掲載され、本国では書籍化されていないものをすべて集めた決定版になっている。
1951年刊行の言わずと知れた名作『キャッチャー・イン・ザ・ライ』や53年刊行の『ナイン・ストーリーズ』以前のサリンジャーはどんなものを書いていたのか? そして、そこから見えてくるサリンジャー文学の全貌とは?
訳者・柴田へのスペシャルインタビューをお届けする。(住本賢一)
サリンジャーがだんだんサリンジャーになっていく

――今回の翻訳刊行の経緯については、訳者あとがきで「河出文庫から刊行された『ナイン・ストーリーズ』に向けられた多くの読者の熱い関心を後押しにして構想され、企画が進められ」たと書かれています。既訳がいくつかあるなかで、どういうモチベーションで翻訳されたのでしょうか。
柴田:とにかく『ナイン・ストーリーズ』以前に発表された短篇21本をすべて入れて、それを時代順に並べるという点が重要でしたね。そのことで、サリンジャーという作家がどのように変貌していったかという「22本目の物語」が見えてくる。それは既訳からは見えにくいものなので、あえて出す意味があるだろうと。
――サリンジャーが現役時代に出した唯一の短篇集『ナイン・ストーリーズ』も、作品は発表順に並ぶ構成になっていますよね。
柴田:そうなんですよ。今回の『初期短篇全集』にせよ『ナイン・ストーリーズ』にせよ、読んでいると「サリンジャーは本当に順々に進化していった作家なんだ」ということがよくわかる。『ナイン・ストーリーズ』で言えば、たとえば最後の「テディ」が小説というより霊的な寓話になっていて、「そりゃこの次はなかなか書けないよな」と思わせられる。今回の『初期短篇全集』で言えば、ほぼ中篇の「転倒した森」を読んでいると「これは自分でもどう書いていいかわからなくなって行き詰まっているな」というところに立ち会えて、それ自体が面白い。もちろんまだ知られていない作家であればまずはベストのものを選んで紹介すべきだけど、サリンジャーくらい多く読まれている作家であれば、そういう楽しみ方もできると思います。
訳者あとがきにも書きましたが、今回の収録作を『キャッチャー』や『ナイン・ストーリーズ』に比べて勝るとも劣らないクオリティだ、と言うのは流石に虫が良すぎる。しかしもちろん、この『初期短篇全集』にしかない魅力も同時にある。それは英語で言えば“vulnerable”な感覚、つまり脆さや弱々しさですね。書き手にも登場人物にも隙がある感じ。さらに言えば、原文のテキスト自体もvulnerableで、すべて雑誌に掲載されたものではあるけれど、サリンジャーが生前に本として出版することを認めたものは一作もない。雑誌掲載時にも、ときにはタイトルを勝手に変えられて激怒したりしています。
――個々の作品で言うと、どの短篇にとくにvulnerableなものを感じますか。
柴田:まず思い浮かぶのは、「フランスにいる少年」ですね。原題は“A Boy in France”で、主人公のベイブは激しい戦闘が行われているフランスの戦場にいる。彼はすこし前の「最後の休暇の最後の一日」でもおそらく同一人物として登場するんだけど、そちらではもっと大人です。それが「フランスにいる少年」では戦場でひたすら無力で途方にくれている。その感覚を出すために、作品間の整合性を無視してあえて「少年」と訳しました。
あとはやはり『キャッチャー』の原型となった「僕は頭がおかしい」と「マディソン・アベニュー近辺で起きたささいな反乱」。『キャッチャー』と同じく主人公のホールデンは大人になりかけのティーンエイジャーで、世界に対する感度が上がってきているのに対して世界から自分を防御する力はまだついてきていない。そういう危うさみたいなものはこの時点ですでに感じられます。
――「僕は頭がおかしい」「マディソン・アベニュー」にくわえて、ほかにもホールデンの名前が間接的に出てくる作品がいくつかあり、『キャッチャー』ファンにとっても興味深い一冊です。
柴田:すくなくとも物語の設定に限れば、この『初期短篇全集』については『ナイン・ストーリーズ』への助走というより『キャッチャー』への助走という面が明らかに強いね。なかにはほとんどそのまま『キャッチャー』に使われている部分もありますから。
そして、あれくらいメジャーな作品だと初期作との異同を楽しむこともできる。『キャッチャー』ではホールデンの妹であるフィービーが重要な役割を果たすわけだけど、今回収録した「マディソン・アベニュー」では帰り着いた部屋にフィービーのほかにもうひとり妹がいて、何度読んでも驚いてしまいます。
サリンジャーの文章表現

柴田:やっぱり『キャッチャー』は比喩もすごく大げさで、たとえば「100万回もそんなこと言われた」みたいな言い方をホールデンはよくする。なので、自意識過剰な子どもの雰囲気がよりはっきり出ている。『初期短篇全集』のほうでは口癖フレーズもそこまでは出てきていないので、まだそのあたりの要素をどれくらい増幅させるかサリンジャーのなかで定まっていない印象を受けますね。
――なるほど。そういったホールデンものをはじめとする若者の物語が印象的な一方、冒頭で話に出た「転倒した森」は読み手としてどう受け止めていいか分からないくらい暗い話でした。しかも語りの仕掛けがやけに複雑で、途中で主人公のコリーンが自分に起こったことを報告する手紙の体裁になったり、と思ったらまた元の三人称の語り(ただしこれも別の人物による報告)に戻ったりします。そういったところにもサリンジャーの書きあぐねている感じが出ているのでしょうか。
柴田:そうとも取れるような迷い方だとは思います。もちろん本当にどうだったかはわからないわけですけど、すくなくとも「ここはこの手紙のかたちしかないよな」という感じではない。ただ、ああいう風に書くことで、サリンジャーがどうというよりは主人公のコリーン自身がドツボにはまってどうしたらいいか分からなくなっている感覚が切実に伝わるようにはなっていると思います。それ自体の凄みがある。
――サリンジャーの文章については、『ナイン・ストーリーズ』の訳者あとがきでスティーヴン・ミルハウザーと柴田さんのやりとりを紹介しつつ「サリンジャーは耳がいい」と評されていました。たとえば、登場人物が歯に挟まった食べかすをほじくりながら“Did you eat yet?”(もう食べた?)と言おうとするのを“Jeat jet?”(おうはへは?)と書いたりすると。今回で言えば、「転倒した森」の子ども時代のコリーンの日記で『高慢と偏見Pride and Prejudice』を聞き間違えて『パレード・プレジュディス』と書いていたりするところがありましたが、こういうところにすでにサリンジャーの「耳のよさ」が出ているのでしょうか。
柴田:うーん、それはどうだろう。それよりは、子どもが背伸びして難しい言葉を聞き取ろうとして聞き取れてないっていう、ちょっとした可愛らしさや微笑ましさの表現の一例ってことでいいんじゃないかな。
――なるほど、むしろ『ナイン・ストーリーズ』収録の人気作「エズメに、愛と悲惨をこめて」で、少女のエズメが難しい言葉を会話で使おうとしてちょっと失敗したりするのに近い?
柴田:そうそう、そう思います。エズメはもうちょっと年が上で頭も良い設定だけど、いずれにせよそういうことだろうと。
――サリンジャーはそういった言い間違いで子どもの可愛らしさを表現するのがうまいですよね。
柴田:そうですね。しかしそう考えてみると、結局はあなたのおっしゃったようにやっぱりサリンジャーの「耳のよさ」という話にも繋がってくるのかもしれないですね。
戦争とサリンジャー

柴田:そのあたりの変化を追うことができるのも『初期短篇全集』の特徴だと思います。たとえばアメリカの第二次大戦参戦前に書かれた「コツをつかめば」なんかは、軍隊を舞台にはしているが明らかにウケ狙いのコメディになっている。個人的にはこういうのも好きなんだけど、その後サリンジャーはすさまじい戦場を体験したり収容所の惨状を目撃したりして、それどころでは済まなくなってきます。それが「フランスの少年」などの描写に反映されていく。
ちなみに、僕が学生だったころは「サリンジャーと戦争体験」みたいなことはそんなに言われなかったんです。むしろ『キャッチャー』以後の作品をもとに「サリンジャーと禅思想」みたいなテーマが立てられがちでした。昔はドストエフスキーであれ大江健三郎であれ、小説から思想を読みとろうとする傾向が強かったからね。それがだんだん変わってきたわけです。あとは作家の抱えているトラウマという見方もある時期から一般的になって、サリンジャーについても戦争体験が重要だと言われるようになった。
ただ、今回訳してみて思ったのは、別にサリンジャーひとりがそういうものを抱えていたわけではなくて、この時代は多かれ少なかれみんなそうだったんだということ。つまり、サリンジャーの戦争体験を特権視する必要はないんじゃないかと。たとえば、今回の短篇が載っていた雑誌を見ると、横に載っているヘアトニックの広告ですら戦争を引き合いに出した宣伝文句になっている。もう戦争というものがとにかく空気としてあったんだ、ということのほうが伝わるといいなと思います。
――訳者あとがきによれば、『キャッチャー』の原型のひとつ「マディソン・アベニュー」は、小説家にとって最高峰の雑誌『ニューヨーカー』への掲載がはじめて決まったものの、戦争勃発によって「不満を抱えたお坊ちゃんの話は戦時には相応しくない」と掲載延期になったそうですね。
柴田:そこが面白いところで、『キャッチャー』では彼が戦争で負った傷は直接的なかたちで現れないけれど、やはりあの作品を考えるうえでもそのことは念頭に置いたほうがいい。もちろんサリンジャーは今回の短篇集の何本かにせよ、さきほど名前の挙がった「エズメ」にせよ、戦争の傷を直接的に書いたものも残しています。でも結局は、デビュー短篇である「いまどきの若者」で書いたような、金持ちのお坊ちゃんお嬢ちゃんの話をとおしてその傷を書くことを選んだわけです。彼の戦争体験がどのように変形されて『キャッチャー』のようなものとして出てきたのか。これは考えるに値するテーマですね。
――今回収録された「最後の休暇の最後の一日」では、登場人物の台詞として、まさに「今回の戦争で戦った人間、これから戦う人間は、ひとたび戦争が終わったら沈黙すること、絶対何も言わないことが倫理的義務だ」という言葉も出てきます。
柴田:そう、だからそこはすごく意識的なんだよね。戦争を体験したから戦争を直接語ればいいってもんじゃないんだぞと。そして、「最後の休暇の最後の一日」ははじめて読者のまえにホールデンの名前が現れる短篇でもある。ここではホールデンは戦場で行方不明という設定になっていて、おそらく死んでいる。ちなみにサリンジャーは雑誌にも載らなかった原稿をすくなくとも3本残していて、そのなかの1本ではホールデンは明示的に死んでいます。彼が死ぬ前に『キャッチャー』でのアリーにあたる弟に手紙を送ったという話です。
いずれにせよ、この『初期短篇全集』を読んでもわかるとおり、当初サリンジャーのなかでホールデンは不在の人物として現れていた。そのことも『キャッチャー』を考えるうえで意味があるかもしれません。
時代のなかのサリンジャー

柴田:たとえば「イレーン」のように相手が中身のない男で結婚まで行きつかない場合もありますし、「ロイス・タゲットの長い長いデビュー」のように結婚したらしたで相手がDV癖を隠し持っていたりしてうまくいかない場合もある。「転倒した森」でも結婚が悲惨な結末を迎える。普通にうまくいく結婚生活が描かれることはまったくなくて、ちょっと異様なくらいですね。
それと、当時のアメリカにおける「人生の選択肢の少なさ」も、サリンジャーを読むとよくわかります。これはサリンジャーの文学的価値とは関係なく、社会の問題として見た方がいいかもしれない。とくに、戦争の時代には女性は銃後を支えるためにある程度社会進出することができたわけだけど、戦争が終わって男が社会に帰ってくると「女性は家庭に戻って家族を支えましょう」ということが謳い上げられて振り回される。たまたま社会が求める型にうまくハマることができたひとはいいとして、そうでないひとはすごく生きづらかったはず。
――そこでも戦争が別のかたちで影を落としている。
柴田:そう。そして戦争と同じくサリンジャーは「選択肢の少なさ」を直接的なかたちで書いているわけではない。けれども、だからこそその辛さが伝わってくるところがある。これは『キャッチャー』にも当てはまる話で、もしホールデンがカウンターカルチャーがある時代にいたらもうすこし生きやすかっただろうなと思います。当時はカウンターカルチャーどころか、その前のプレスリーやジェームズ・ディーンといった「若者のヒーロー」ですらまだ出てきておらず、「若者文化」そのものがないんですよね。もしホールデンがもうすこし後に生まれていて、バンドとかできていたらもうちょっと発散できただろうにと。
――そんな『キャッチャー』が60年代のカウンターカルチャーの時代に若者のバイブルとしてさらに読まれたというのも皮肉な話ですね。
柴田:たしかにそうだよね。僕がこの小説をはじめて読んだときは、「ホールデンって別に60年代のヒーローみたいに反抗するわけじゃないじゃん」と思いました。60年代に若者のバイブルとして読まれた小説は3冊あって、サリンジャーの『キャッチャー』、ジョセフ・ヘラー『キャッチ=22』、そしてケン・キージー『カッコーの巣の上で』。そのなかで、『キャッチ=22』は主人公が軍隊から降りるし、『カッコーの巣の上で』は映画版であればジャック・ニコルソンが演じたキャラクターを中心に反抗が試みられるわけですよね。でも、それに比べてホールデンは全然反抗しない。「なんでこれが60年代のヒーローなの?」と。でも、それはむしろ初読時の僕が作中の行動レベルでしか読めていなくて、行動に出ないレベルでのホールデンの怒りとか反抗心みたいなものを当時の若者が敏感に読み取ったってことなんですよね。
――柴田さんは村上春樹さんとの対談本『翻訳夜話2 サリンジャー戦記』(文春新書)で、『キャッチャー』を初めて読んだのは大学に入ってからだったと語っていました。
柴田:はい、もう圧倒的に出遅れました(笑)。あれはやっぱりできれば10代のうちに一回読んでおいたほうがいいね。中学・高校生のころは漫画ばっかり読んでいて、物語はもっぱら水木しげるや赤塚不二夫から吸収していたんです。
――そうだったんですね。サリンジャーに話を戻すと、若いときに読んだサリンジャーと年を重ねて読むサリンジャーだと印象は違いますか。
柴田:はい、違います。たとえば『キャッチャー』であれば、ホールデンと下手に年齢が近いころは逆に「俺とこいつは全然違う人生だ」ということのほうが気になってしまって彼の身になりづらかった。それがいまくらい年が離れると、割と気楽に「このひとの身になってみようかな」という感じで読める。「他人の身になってみる」のは、小説というツールの大事な効用のひとつですから。
ただ、サリンジャーは「流石にこのひとの身にはなれないよ」という小説も書いているのが面白いんですけどね。たとえば、サリンジャーが中期から後期にかけて書いた一連のグラース家の物語に登場する長男シーモア。彼は兄弟みんなから崇められるほとんど神様みたいな存在で、それが突然自殺しちゃう。あのひとの身になるのは無理です。今回で言えば、「転倒した森」に出てくる詩人もなかなか難しい。
――「転倒した森」の詩人がヤバいという話だと、ある場面で出てくる「僕はまた脳(ザ・ブレーン)と一緒にいるんだ」というルビつきで訳された台詞が印象的でした。あれは英語としてどれくらい変な表現なんでしょうか。
柴田:あんなのわけわかんない(笑)。サリンジャーはまだそこまで偉い作家というわけでもなかったはずなのに、よく編集者が通したなって感じですね。ふつうであれば、「ごめんジェローム(※サリンジャーのファーストネーム)、これじゃわかんないよ」って書き直しを要求するんじゃないか。そういうものが残っているところもこの短篇集の面白さです。
――「転倒した森」は、当時の読者が掲載誌に抗議の手紙をたくさん送ったのだとも訳者あとがきで解説されていました。
柴田:翌年の1948年にはシャーリー・ジャクスンの「くじ」にも抗議が殺到したんだよね。そうやってみんなが雑誌の短編を読んで怒って投書するくらい、小説が本気で受け取られた時代があったんだなというのは逆に羨ましいくらいです。いまでは考えられない。最後に似たような騒ぎがあったのは、1991年にブレット・イーストン・エリスの『アメリカン・サイコ』が出て、「こんなサイコキラーを肯定するような話を出していいのか」と書店によっては置かなかったりしたときくらいですかね。
――抗議はさておき、この『初期短篇全集』もできるだけ多くの読者の手にとられるといいですね。その価値がある本だと思います。
柴田:ありがとうございます。500頁超のボリュームで税込3000円を切るお手頃価格なので、そこもアピールしておきたいです(笑)。
――最後にサリンジャー=柴田ファンとしてもうひとつだけ聞いておきたいのですが、柴田訳も村上春樹訳も出ていないサリンジャー作品はまだいくつか残っていますよね。それを翻訳する予定はありますか。
柴田:後期の「大工よ、屋根の梁を高く上げよ」「シーモア――序章」「ハプワース16、1924年」あたりのグラース一家ものですよね。どうでしょう……。この3本はどれもおそらく40年くらい読んでいなくて、そのときは今回の「転倒した森」と同じく、「これは一体どこに向かうんだ」と暗い場所をさまよっている印象だったのをなんとなく覚えているだけです。でも、今回「転倒した森」を何十年かぶりに読み直して訳してみるとじつはすごいとわかったので、言ってもらったものもまた読み直してみてすごいと思えたら考えるかな。

■書誌情報
『サリンジャー初期短篇全集』
著者:J・D・サリンジャー
翻訳:柴田元幸
価格:2,970円
発売日:2026年7月28日
出版社:河出書房新社





















