累計165万部超え『三河雑兵心得』シリーズ・井原忠政が語る、娯楽小説家としての心得「歴史をエンタメとして楽しんでほしい」


徳川家康の天下取りの歩みを、「足軽(雑兵)」の視点から描いた『三河雑兵心得』(2020年1月~/双葉文庫)シリーズが現在18巻、累計165万部超えの大ヒットを記録中。2022年の12月には、その姉妹シリーズである『北近江合戦心得』(小学館文庫)がスタートし、現在8巻まで刊行中。さらに昨年の10月からは、新シリーズ『真田武士心得』(文春文庫)がスタートして、現在3巻まで発売されるなど、歴史・時代小説の分野で大活躍している小説家・井原忠政氏。
上記の「戦国三部作」は、各シリーズ年2冊を基本とするハイペースで刊行され、このたび第15回日本歴史時代作家協会賞シリーズ賞を受賞した。異例のヒットと言えるが、実は井原氏が作家としてブレイクするまでには約20年もの歳月があったという。
出世作となった「戦国三部作」シリーズ執筆のきっかけや、ともに歩んできた出版エージェント「アップルシード・エージェンシー」との関係性、そして自身が考える歴史・時代小説の未来についてまで、幅広く語ってもらった。
戦国時代の「天下取り」にもさまざまな登り口がある

――“心得ユニバース”とも言うべき「戦国三部作」を並行して執筆されていますが、この構想自体はいつ頃から温めていたのでしょうか。
井原:三部作として並行して展開することになったきっかけは『北近江合戦心得』です。双葉社さんから出していた『三河雑兵心得』シリーズが軌道に乗ってきたところで、小学館さんと「何か新しいものを始めましょう」という話になり、私から提案した企画がベースになって『北近江合戦心得』を執筆しました。『三河雑兵心得』で雑兵の視点から描いている徳川家康の天下取りを、逆の視点――つまり豊臣秀吉側から並行して描いたら面白いのではないか、と。提案するとすぐに「それでいきましょう!」と決まりました。その時点ですでに、次の『真田武士心得』の構想も頭にありました。富士山の登り口がいくつもあるように、戦国時代の「天下取り」にもさまざまな登り口があり、それぞれ見える景色が違って面白い。少なくとも3つの方向性から描けるという手応えは、その頃からありましたね。

――なるほど。『三河雑兵心得』の主人公・植田茂兵衛と『北近江合戦心得』の主人公・大石与一郎は架空の人物ですが、最新シリーズ『真田武士心得』の主人公・鈴木右近は実在の人物(※鈴木忠重/真田氏の家臣で名胡桃城代だった鈴木重則の子)です。実在の人物を描くうえでの書き方の違いはあるのでしょうか。
井原:基本構造はどれも同じです。『三河雑兵心得』は家康、『北近江合戦心得』は秀吉の時代を描いています。鈴木右近はたしかに実在の人物ですが、生涯の最初と最後以外は分かっていないことも多い。そのため『真田武士心得』では、右近を通して真田昌幸や真田信之の生き様を描いています。いずれも我々に近い凡人を主人公に据え、彼の人間ドラマを追いながら、並行して歴史上の英傑たちの動きを描くというアプローチですね。
――家康や秀吉、真田家の人々を主人公にした歴史小説は数多く存在します。
井原:そうなんです。偉大なる先達たちがいくらでも名作を残されている。だとしたら視点を変えなければ、自分が書ける余地はありません。実績のなかった自分が苦肉の策として選んだのが、この「凡人からの視点」というシステムだったわけです。
――そのユニークな切り口が見事に読者の心を掴んだわけですね。
井原:ありがたいことです。『三河雑兵心得』に関しては、読者が「これは自分だ」「こういう奴、知り合いにいたな」と自己投影できる庶民の目線で描くことを意識しました。それが功を奏したのかもしれません。もうひとつ大きかったのは、庶民がさまざまな経験を通して成長していく物語――いわゆる「ビルドゥングスロマン(成長小説)」であることを最初から明確に意識していた点です。『北近江合戦心得』も『真田武士心得』も同様で、その意味でもこれらは「姉妹シリーズ」だと思っています。

――それらの物語を同時に走らせている点が驚異的ですが、複数シリーズの並行執筆も意図的な戦略だったのでしょうか。
井原:あまり声を大にして言うことではないかもしれませんが……ぶっちゃけた話、私は20年近く売れない作家でした(笑)。一応食べることはできていましたが、ギリギリの生活で。そういう作家はたくさんいらっしゃいますし、卑下しているわけではありませんが、『三河雑兵心得』がヒットしたときに「このままでは一発屋で終わる」という強い危機感を抱いたんです。一発屋で終わらせないためには、このヒットを足掛かりにして第2、第3のシリーズを立ち上げるべきだと考えました。おかげさまで『北近江合戦心得』も『真田武士心得』も多くの方に読まれていますが、『三河雑兵心得』が完結してから始めていたら、ここまで届かなかったはずです。同時に動いているからこそ、作品同士の繋がりを含めて楽しんでいただけているのだと思います。
――戦略的な判断があったとはいえ、各シリーズの新刊を毎年2冊ずつ刊行するペースは相当ハードかと思います。
井原:単行本では不可能なペースですね。これは「文庫書き下ろし」というフォーマットならではだと思います。私の「戦国三部作」は、歴史のシーケンスが常に動き続けている作品です。ゼロから世界観を構築する必要はなく、実在する歴史の展開の中に、自分が作ったキャラクター(『三河雑兵心得』であれば茂兵衛)をどう絡めていくかを考えればいい。だからこそ、このペースで書けているのだと思います。完全にゼロから構築した世界観であれば絶対に不可能です。
――歴史的な枠組み(軸)が提示されているからこそ可能になると。
井原:そうです。ですから歴史的事実に関しては、誤りがないよう徹底的にリサーチし、各版元の歴史に詳しい方々にもチェックしていただいています。その確固たる史実に対して、主人公たちがどう対峙し、どう行動するのかをひたすら考えていく。執筆の「馬力」自体は、たしかにある方かもしれません。
――その馬力や対応力には、もともと脚本家として活動されていた経験も影響しているのでしょうか。
井原:それは間違いなくあるでしょうね。脚本家というのは、一部の大先生を除けば組織の歯車のひとつです。先方の事情や厳しいスケジュールに合わせるのが当然の世界でした。「今週は別の案件を書いているので……」なんて言い訳は通用しません。そうした環境で揉まれた結果、どんな無理難題に対しても文句を言わずに打ち返す習い性が身についたのだと思います。
小説家デビューから「戦国三部作」に至るまで

井原:忘れもしない2015年7月1日、まさに今インタビューを受けているこの事務所に初めて伺い、面談を受けました。
――『三河雑兵心得』シリーズが始まるよりも、かなり前のことですね。
井原:ずいぶん前ですね。契約後に執筆した『旗本金融道』シリーズは、エージェントを通じて版元を紹介していただきスタートした企画です。当時は時代小説を書くことになるとはまったく思っていませんでした。
――それは意外です。

井原:そうなんです(笑)。元脚本家ということもあり、企画のストック自体はたくさん持っていました。そのうちのひとつがきっかけとなり、時代背景などを猛勉強して書き始めたのが『旗本金融道』でした。
――非常に興味深い流れですね。
井原:もう少し遡ってお話ししますと、私はもともと2000年に「城戸賞」を受賞し、そこからずっと「経塚丸雄」名義で脚本家として活動していました。転機となったのは、『NARUTO』の映画版である『THE LAST -NARUTO THE MOVIE-』(2014年)です。当時、JUMP編集部が劇場版NARUTOの企画を求めており、制作会社を通じて提出した私の企画が採用されました。
――興行収入20億円を記録した大ヒット作ですね。
井原:はい。その流れでノベライズも執筆することになり、こちらも非常に大きな反響をいただきました。ただ、ここで先ほどの『三河雑兵心得』の時と同じ危機感を覚えたんです。「この成功に甘んじていたら、ここからじり貧になってしまうのではないか。今が勝負の時だ」と。そこで、アップルシード・エージェンシーに自分の資料を送り、契約を申し込みました。作家としてのキャリア形成を一緒に考え、後押ししてくれるパートナーの存在が必要だと感じたからです。無事に契約が決まり、エージェント経由で出した『旗本金融道』が第6回歴史時代作家クラブ賞新人賞を受賞しました。
――「脚本家」としてではなく、「時代小説作家」として業界に認知された瞬間ですね。
井原:そうです。その後『わんわん武士道』シリーズなどを執筆しながら「そろそろ次のステージへ行こう」という話になり、私から『三河雑兵心得』の企画書を版元に提出しました。
――そのタイミングで、ペンネームも徳川四天王(酒井忠次、榊原康政、本多忠勝、井伊直政)にちなんだ「井原忠政」へと変更し、心機一転スタートされたわけですね。
井原:まさに心機一転の仕切り直しです。最初に版元の編集者とお話しした際、当時は時代小説といえば「江戸もの」が主流であり、私も『旗本金融道』という江戸もので新人賞を獲っていたため、「戦国時代の家康物で大丈夫か」という空気は少なからずありました。しかし、「家康本人ではなく、その下で槍働きをする庶民の成長物語を描きたい」と企画の意図を伝えたところ、一発で企画が通り、『三河雑兵心得』シリーズがスタートしました。
――冒頭でお話しいただいたように、『三河雑兵心得』のヒットを受けて『北近江合戦心得』『真田武士心得』がスタートするわけですが、いずれも「文庫書き下ろし」でありながら出版社はすべて異なります。
井原:そうですね。『北近江合戦心得』が始まった後、「異なる出版社から、同じ戦国時代を描いたシリーズを並行展開するのはどうか」と思いつき、文藝春秋さんに『真田武士心得』を提案しました。そこからエージェントが各版元に働きかけてくださり、連携する体制が整いました。
――作家個人で3社を跨ぐ「交通整理」を行うのは至難の業かと思います。
井原:大御所の先生ならいざ知らず、私のようなおちゃらけ作家の立場では到底不可能です。交通整理が見事に行われたことで、出版社同士の利害調整や条件交渉などのストレスがなく、純粋に執筆に集中できる環境を作っていただけました。
――エージェントの存在が、井原さんの「執筆の馬力」を100%創作へ注ぎ込める環境を生み出していると。
井原:そうですね。エネルギーのある人間でも、放っておくと執筆以外の不要な摩擦やトラブルにそのエネルギーを使ってしまいがちです(笑)。第三者が間に入ることでやり取りが透明化され、不要な対立や行き違いが回避されます。
――クリエイティブな現場だからこそ、客観的な第三者の視点が活きてくるわけですね。
井原:創作の現場にはこだわりを持ったプロが集まりますから、どうしてもぶつかりが生じやすい。一歩引いた立場で伴走してくれるパートナーがいることは、大きな救いになっています。
「戦国三部作」は現代の若者が読んでも抵抗なく受け入れられる価値観

井原:アイデアの手数と「ソリューション(解決策)」を出すスピードが早いタイプだと思っています。執筆スピード自体は作家志望の方なら誰もが持っているものですが、途中で壁にぶつかった際に筆が止まってしまう。私の場合は、壁にぶつかった時に打開策(ソリューション)を素早く提示できるため、この刊行ペースを維持できているのだと思います。
――史実と架空の主人公の動きを組み合わせる際、整合性を保ちながら展開させる手腕には毎回感心させられます。
井原:実際の歴史の中に、茂兵衛という架空のキャラクターをどう自然に組み込むか。アイデアを10個、20個と出し尽くした中から「これだ」と思える最適解を選び取っています。それこそがこのシリーズ一番の醍醐味ですので、毎回知恵を絞っています。
――最後に、時代小説を書く意義、そして読者が読む意義についてお聞かせください。
井原:シンプルに「歴史をエンターテインメントとして楽しむ」ことに尽きると思っています。「歴史を学ぼう」と肩肘を張るのではなく、エンタメとして楽しんで消費してもらえる作品を提供する。それこそが娯楽小説家としての自分の役割だと考えています。
――「歴史」と聞くとどこか敷居が高く、敬遠されがちな側面もあります。
井原:そうですね。どこか司馬遼太郎先生や城山三郎先生の作品のように、「国家や時代を背負う」といった高尚なイメージが根強いからかもしれません。高度経済成長期の日本においては、司馬先生らの作品を読んで「自分も国のために頑張ろう」と活力を得ていた時代があったのだと思います。ですが、現代はそうした時代ではありません。「坂の上の雲」を目指して坂を登っていくというよりは、どこか坂の下に留まっているような感覚がある。
――どこを目指すべきかが見えにくい時代でもありますね。
井原:そうなんです。そういう時代だからこそ、国家や組織といった大きな概念のためではなく、「身近な人や大切な仲間のために頑張る」という価値観の方が、現代の読者に強く響くのではないかと考えています。『三河雑兵心得』の主人公・茂兵衛は徳川の譜代出身ではなく、家康のことも「好きな地元の先輩」を応援するような感覚で支えています。『北近江合戦心得』の与一郎は仲間たちを勝ち組にするために奮闘し、『真田武士心得』の鈴木右近に至っては家名のためではなく、真田信之という恩人のために動いている。現代の若い世代も同じですよね。会社や国のためではなく、「尊敬する上司や大切な同僚のために頑張る」という感覚に近い。だからこそ、私の「戦国三部作」は現代の若者が読んでも抵抗なく受け入れられる価値観になっているのだと思います。
――時代を超えたその「共感性」こそが、多くの読者に支持される理由なのですね。
井原:そう感じています。私が書いているのは、あくまでエンターテインメントに特化した小説であり、小難しい思想を語るものではありません。国や時代は違えど、『キングダム』や『ゴールデンカムイ』といった人気漫画を読む感覚と本質的な差はないと思っています。小説や文庫本という媒体は漫画・アニメに比べると少しハードルが高く感じられるかもしれませんが、そうしたエンタメ作品と並び立つ作家としてやっていきたい。今回、「戦国三部作」にて日本歴史時代作家協会賞シリーズ賞をいただいたことを励みに、今後もその姿勢を貫いて執筆していきたいですね。

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