実在した最初の大王・継体天皇の謎とは? 日本古代史研究者「『日本書紀』の即位記事は中国の故事を模倣して作られた」

いま、古代史ファンの間で河内春人の著書『継体天皇 六世紀に現れた世襲王権の「始祖王」』(中公新書)が大きな話題を呼んでいる。本書は、血縁の不確かな北陸の豪族でありながらヤマト王権に迎えられ、後の天皇家へと続く血統重視の世襲王権を創り上げた「始祖王」継体天皇の謎に迫る一冊だ。国内外の困難に対峙し、五世紀と六世紀を繋ぐ過渡期を描いた本書の背景について、著者の河内に、記紀の記述に潜む矛盾や武烈天皇架空説などの批判的検証の舞台裏を聞いた。
なぜ今、継体天皇に注目するのか

――本書を書かれた動機は?
河内春人(以下、河内):私の専門は日本古代史で、その中でも国際関係史――中国古代史とか朝鮮古代史とも関係する領域の研究が専門です。以前書いた『倭の五王 王位継承と五世紀の東アジア』(中公新書)が、副題の通り五世紀を扱っているのですが、同じ編集者の方から「もう一冊書きませんか?」というお話をいただいて。そこで、どんな本がいいか話し合い、「『倭の五王』の続きということで、六世紀の初め頃の話、継体天皇の話はどうだろう?」と提案したら、「それは面白そうだ」と。倭の五王と継体天皇がどう繋がるかについて書かれた本は、これまであまりなかったですし、やってみる余地があるのではないかと考えました。
――六世紀の初め頃に即位したとされる第二六代・継体天皇は、一般的にはそこまで認知されていないように思いますが、古代史の研究者たちのあいだでは、非常に重要な天皇として周知されているようですね。
河内:そうですね。継体天皇は、遡ることができるいちばん最初の確実な天皇、厳密には「大王」なのですが、どうやら実在した天皇であると考えられています。もちろん、それ以前の「倭の五王(讃・珍・済・興・武)」も、大王として存在したとされているのですが、それが『古事記』や『日本書紀』に記されている天皇たち(応神、仁徳、雄略など)と、そのまま結びつくのかというと、そうではないようなところがあるんです。『古事記』『日本書紀』にも書かれていて、その実在性について、みんなが認める最初の大王であるという点で、継体天皇は非常に重要です。あと、もうひとつ大きいのは、本人の墓が学術的に調査されているということです。
――大阪府の高槻市にある……。
河内:そう、今城塚古墳です。大王の古墳とされている「前方後円墳」は、すべて宮内庁が管理していて、基本的には発掘調査ができない状態になっているんです。ただ、継体天皇の場合は、今城塚古墳の近くにある太田茶臼山古墳のほうが、宮内庁が言うところの継体天皇陵という扱いになっていたので、発掘調査することができたんです。
――その結果、今城塚古墳のほうが、継体天皇陵である可能性が高いことがわかった?
河内:そうなんです。もちろん、太田茶臼山古墳のほうは、依然として発掘調査されていないので、そこは何とも言えないところではあるのですが、恐らく今城塚古墳が継体天皇陵だろうと。つまり、大王の墓というものが、どういうものだったのかを確認することができる、わずかな手掛かりを持っているのが継体天皇なので、そういう意味でも非常に注目を集めているわけです。考古学の研究者と、私たち文献史学の研究者が意見を交わすことのできる存在ーー継体天皇は、そのような位置づけになっているんです。
漢の故事と酷似する即位の物語

――そんな継体天皇について本書では、どのような形で書いていこうと思ったのでしょう?
河内:やはり、文献だけを頼りにすると、どうしても『古事記』『日本書紀』と、プラスアルファでいくつかぐらいしか史料がないので、そこからどうやって組み立てていくかは、いろいろと悩んだところではありました。継体天皇だけで書こうとしても、なかなか難しいところがあるんです。なので、継体天皇の先祖は、どういう人たちだったのかと遡るところから始めました。また、継体天皇は「大王」ですから、当時の大王とか王権というのは、どういう形のものだったのか。その中で継体天皇は、どういう特徴を持っている人物だったのかをという点に注意しました。
パートとしては、継体天皇が出現するまでの状況や先祖の話、五世紀終わり頃の倭王権の状況をまず解説して、『日本書紀』の継体が即位したという記述は、どこまでが事実なのかということを検討し、継体が即位してから、在位中に何をやったのか――これについては、『日本書紀』でも、実はあまり触れられておらず、それこそ「磐井の乱」であるとか、朝鮮半島の動向になるので、そこはもう「東アジアの情勢と継体天皇」という形で書くことにして、最後に継体が亡くなったときの問題などをまとめました。
――『古事記』や『日本書紀』に登場するとはいえ、継体天皇に関しては、いろいろと矛盾するところも多いようですね。
河内:そうですね。矛盾は多いです。だから、その批判的検討から始めるしかないわけです。やはり古代史の人物で、特に飛鳥時代よりも前の人物となると、情報量が圧倒的に少なくなるんです。継体天皇に関しては、基本的には『古事記』と『日本書紀』と、あと『上宮記』ぐらいが大きいものになっていて。従来の研究では、それに寄せて説明するような形が多かったのですが、『日本書紀』の記述自体が、中国の話をそのまま持ってきているようなところがあります。
――その箇所は、本書を読んでいて、少し驚いてしまいました。継体天皇に関する『日本書紀』の記述が、中国の『漢書』の記述と酷似しているという。
河内:そうなんです。そこは少し深く掘り下げて書いたのですが、実はこれは江戸時代から指摘されていることなんです。中国のものと文章的にそっくりなところがあると。むしろ、そういう研究は、江戸時代のほうが、しっかりやっていたりします。そこからさらに、継体天皇の即位にまつわる物語が漢の文帝の故事とすごく似ているということを本書の中では指摘しました。それをどう取るかは読む人の判断ということになりますが。
現代の感覚で古代を見てはいけない

――『古事記』や『日本書紀』は、必ずしも真実が書かれているわけではなく、どういう目的で書かれたのかを踏まえながら読み解いていくことが肝要であると。
河内:それは歴史書を読むときの基本的な姿勢です。たとえば鎌倉時代の『吾妻鏡』、これは北条氏に都合の良いように書かれた歴史書であるわけです。それこそ中国王朝の歴史書は、その王朝が前の王朝を倒したことを正当化するために書かれた歴史書という面もあります。歴史書に限らず、史料というのは、事実が書いてあるというよりも、書いた人がこうあって欲しいと思う願望が織り込まれていることが多いので、そういったものをなるべく取り除きながら、事実である可能性が高いものを読み取っていくというのが、文献史学のひとつの作法だと考えています。
――なるほど。
河内:もちろん、そのことが複数の史料に書いてあれば、それは恐らく事実と認定していいだろうという一種のルールみたいなものはあるのですが、古代の場合は、ひとつの史料にしか書いてなかったりすることが多いんですよね。「磐井の乱」のように、『古事記』『日本書紀』さらには『風土記』にも書かれているように複数の史料があると、そういった軍事的な問題があったんだなということがわかる。実際、岩戸山古墳という磐井の墓も残っていて、『風土記』に書いてあることとある程度一致するという確認が考古学的な見地からも取れていたりするので、磐井の乱に関してはまあ事実と言っていいだろうと考えるわけです。ただ、反乱を起こした人間の墓がどうしてそのままの形で残っているのかはよくわかっておらず、当時と今の感覚の違いみたいなところはなかなか興味深いところではありますよね。
――たしかに。今の感覚で、古代を見ようとすると、なかなか理解しづらいところが、いろいろと出てきますよね。
河内:現代の感覚でその時代を見るというのは、非常に危なっかしいことでもあります。たとえば今の天皇がこうだから当時も今と同じようだったんじゃないかというように考えると、いろいろと間違った解釈をしてしまう恐れがあります。それこそ「万世一系」みたいな話だって、初代・神武天皇の実在については批判的な理解が受け入れられているものの、古代の大王たちはみんな血筋が繋がっているという点では一種の固定観念となっているところがありますが、実際に倭の五王はどこまで血筋が繋がっていたのかという問題もあります。継体も一応、繋がっているような系譜ですが……。
――第一五代・応神天皇の五世孫にあたるんでしたっけ?
河内:『日本書紀』にはそう書かれているのですが、たとえば今の天皇から五代遡ると、幕末の孝明天皇になってしまうわけで。そこから枝分かれした子孫ですと言われても、それを親戚と呼んでいいんだろうかという問題もある。それだったら、五世じゃなくて六世だって七世だって、みんな血が繋がっているという理屈になってしまいます。
武烈天皇は存在しなかった?
――本書に書かれていましたが、その「五世」ということにも、実は意味があったのかもしれないと。
河内:はい。『日本書紀』が書かれた奈良時代においては、「五世まで」という括りに意味がありました。だから、継体天皇のことを最初に記録に残した時代と、『古事記』『日本書紀』で編集し直した時代、さらには南北朝時代の『神皇正統記』のようにそれらを読み込んだ上で独自の解釈を施したものは、それぞれ区別して考えるべきなんです。そこには時代ごとのいろいろな解釈が入り込んでいる可能性があるので、これをどうやってわかりやすく読者に伝えるのかということが、本書を書く上でのひとつの課題ではありました。
――そもそも、継体天皇の先代である第二五代・武烈天皇が悪辣極まりない大王で、なおかつ後継者を残さずに世を去って、その結果、血筋的にはかなり遠い継体が、紆余曲折の果てに即位したというのが基本的な理解だったのですが、本書を読んでいたら、武烈天皇の存在自体、実は多くの疑問があるようですね。
河内:そうですね。私はもう「いなかった」でいいんじゃないかと思うんですけど(笑)。ただ、『日本書紀』って儒教的な感覚を強調するところがあるんです。血筋が途絶えてしまうのは、悪いことをやったからであるとか、そういう因果応報的な書き方をする傾向がある。もちろん現実的には悪いことをしなくても血筋が途絶えてしまうことはあると思うのですが、そこは敢えて悪いことをしたからだと記述するわけです。あるいは、継体天皇が自分の立場を正当化するために、前の王権がこんなに悪かったんだと強調した可能性もありえます。そのようにいろいろな可能性が考えられる中で、諸々の文献や考古学研究の流れを踏まえてどれがいちばん妥当性が高いかというと、やはり武烈天皇は架空の存在だったのではないかと考えられるのです。
――そこは、結構踏み込んでいらっしゃると思いました。
河内:まあ、そうですね(笑)。ただ、本書で扱っているのは、五世紀の終わりから六世紀ぐらいですけど、たとえば四世紀の頃の大王って、三世紀の後半ぐらいから年代的に調整したようなところがあるんです。具体的には、一〇代・崇神、一一代・垂仁、一二代・景行、一三代・成務……となっているわけですが、大王の墓とされる大きい前方後円墳って、もっとたくさんあるんですよね。だから、大王自体、もう少したくさんいた可能性があると思っているのですが、『日本書紀』は四人しかいませんでしたと言い切っている。
――しかも、そのあたりの天皇って、みんな100歳を超える長寿なんですよね。
河内:そうですね。初代・神武天皇が即位した紀元前六六〇年というスタート地点が先に設定されていて、そこに合わせるためには、ひとりひとりの寿命を引き延ばすしかなかったという。あと、「欠史八代」と呼ばれている二代目から九代目のような、名前しか残っていない天皇もいて……。そういうところは、批判的に見なければいけないだろうということです。
王朝交代ではなく「規範の継承」
――本書を通じていちばん伝えたかったことは、どんなことになるでしょう?
河内:やはり、五世紀と六世紀は、繋がっているということでしょうか。五世紀までは、『魏志倭人伝』や『宋書』倭国伝などの文献もありますが、どちらかというと考古学の視点から語られることが多い。だけど、六世紀になると、『日本書紀』に書かれていることの信頼性が一定程度高まり、継体天皇の存在をはじめ、ある程度事実ではないかと言えるようになるんです。なので、五世紀までと六世紀からで、少し断絶したイメージがあるのですが、実際は断絶しているはずもなく、繋がっています。そこを意識しながら書いたところがあるので、そのあたりのことが伝わったら嬉しいです。
――本書の中では「二面性」という言葉を使われていましたけど、そんな五世紀と六世紀を繋ぐ「画期」として、継体天皇が重要であるということですね。
河内:王権の世襲をはじめ、継体天皇から新しく変わったところがあるのは事実ですが、それによって倭の五王の時代とは断絶しているようにも見える。ただ、何もかもがまったく新しいなんてことはありません。たとえば「楽市」は、織田信長が始めたわけではなく、その前の戦国大名もやっているし、「検地」だってやっているわけです。つまり、信長はそれより前の戦国大名がやってきたことを引き継ぎながら、なおかつ新しいこともやった。そういう意味で、転換期の戦国大名と言えるわけです。それと同じように、継体天皇も、倭の五王の時代と同じやり方とか、同じルールの中でやっているところと、そのルール自体を変えたところの両面があると思います。そうでなければ、そもそも即位できなかったでしょう。
――そうですよね。中国のように、継体が前王朝を倒して、新しい王朝を打ち立てたという話ではないわけで。
河内:昔は「継体が北陸から大軍を率いてヤマトに乗り込んできた」というような、いわゆる王朝交代劇として語られることもありました。しかし、もし本当にそうであれば、大伴金村(おおとものかなむら)や物部麁鹿火(もののべのあらかひ)といった中央の有力豪族たちが、わざわざ彼を迎え入れて味方する理由がありません。中央の豪族たちが納得するだけの「正当な理由」が、継体側にはあったはずなのです。それはつまり、継体がそれ以前の王権のルールをある程度踏まえていた(規範を継承していた)ということの表れなのだろうと思います。
ただ、『日本書紀』を読み解くと、即位する前までは継体がいかに偉大な人物であったかが大々的に描かれているのですが、いざ即位したあとの実績や、どのような政治力を発揮したかについては、実はほとんど書かれていないのです。即位後に大きくクローズアップされるのは、地方豪族が反乱を起こした「磐井の乱(いわいのらん)」くらいです。
――それも、磐井を倒して、統一王朝を盤石にしたといった、わかりやすい話ではないわけですよね。
河内:むしろ「継体が即位する際には、磐井も(大和への輿入れを)サポートする側に回っていたはずなのに、なぜ後になって袂を分かつことになったのか」という、新たな謎が浮かび上がってきます。前著『倭の五王』でも強調したのですが、当時のヤマト王権は、まだまだ有力豪族たちの「連合体」としての側面が強いものでした。決して、大王が絶対的なトップに君臨し、それ以外はすべて従順な家来である、というような強固な統一政権ではなかったのです。
そうした緩やかな王権のあり方が、六世紀の中頃、継体天皇の息子である第二九代・欽明天皇の時代になると、東北地方南部から九州までヤマト王権の大王のもとに結集する形に整ってきます。この大きな構造変化のバトンを繋いだという意味でも、その一世代前にあたる継体天皇が、歴史の大きな転換点であったことは間違いないと考えています。
■書誌情報
『継体天皇-六世紀に現れた世襲王権の「始祖王」』
著者:河内春人
価格:1,100円
発売日:2026年5月22日
出版社:中央公論新社
レーベル:中公新書

























