『夏帆』は村上春樹版『ツイン・ピークス The Return』である 米文学研究者・青木耕平による読解

『夏帆』は村上春樹版『ツイン・ピークス』

 村上春樹の新作長編『夏帆─The Tale of KAHO─』(新潮社)をどう読んだか、「村上春樹ファン」を自認するアメリカ文学研究者の青木耕平氏に聞いた。村上作品全体までも視野に入れた『夏帆』評をお届けする。(編集部)

『夏帆』のクオリティは完全カムバックの兆し

村上春樹『夏帆─The Tale of KAHO─』

 最初に言わせてください。「私は・村上春樹の小説が・好きだ」。というわけで、単行本を発売初日に買い、一息で読みました。その上での率直な感想は、「面白くてホッとした。戻ってきてくれて嬉しかった」です。というのも、同じく発売初日に買って読んだ『騎士団長殺し』(初版発行2017年、出版年表記は以下同、新潮文庫)は「これは傑作には程遠いぞ……」と天を仰ぎましたし、前作の『街とその不確かな壁』(2023年、新潮文庫)では「もう村上さんは終わってしまったの……?」と絶望にうちひしがれましたから。この2作は物語内容それ以前に文章がとにかく冗長で退屈だなと思うところばかりでした。今回の『夏帆』はそれがなく、文章も物語もグリップがしっかり効いていた。村上春樹は全然終わっていない!と興奮しました。

 とはいえ、あくまで『夏帆』は作家本人がよく言うところの「少し短めの長編」です。これまでのキャリアを考えれば、次に書かれるべき「長い長編」に向けた実験的な助走であり、単体としては“新たな一歩を踏み出したシンプルな佳作”と捉えるべきだと思います。次にこのクオリティで「長い長編」が書かれたときに真のカムバックと言えるでしょう。では、『夏帆』で彼はどんなことをやっているのか。

村上春樹版の『ツイン・ピークス The Return』

 『夏帆』は「女性を主人公にした初の長編小説」と銘打たれて刊行されました。テーマ的にも、主人公の夏帆が「シロアリの女王」にとりつかれた母親とどう向き合うかという“母殺し”の物語であることが村上作品として新しいとされています。

 ただ、私見ではこれは“母殺し”というよりあくまで“シロアリの女王殺し”の話です。というか、これは村上春樹版の『ツイン・ピークス The Return』(邦題は『ツイン・ピークス:リミテッド・イベント・シリーズ』、以下『The Return』と表記)なんです。決して奇をてらって言っているわけではありません。村上春樹作品全体に通底するテーマと関係するので、順を追って説明しましょう。(※以下『ツイン・ピークス』と『The Return』、および『夏帆』の展開に触れますのでご注意ください)

 デヴィッド・リンチ監督による伝説的なドラマ『ツイン・ピークス』は、ある田舎町でローラ・パーマーという美女の死体が見つかるところから始まり、誰が彼女を殺したのかというミステリで引っ張る作品です。種明かしをしてしまうと、彼女を殺したのは得体の知れない悪の力=「ボブ」だという結論になります。「ボブ」は次から次に違う人間に憑依し乗り移っていく。なので、犯人を捕まえても事件は解決しません。

村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』

 この、「次々と違う人間に憑依する悪の力/悪は遍在する無形の力である」というのがまさに村上春樹的なテーマで、彼は実際に『ツイン・ピークス』好きであることも明かしている。たとえば2022年に出版された『ねじまき鳥クロニクル』の英訳新版に付された自著解題でもそのことを書いています。『ねじまき鳥クロニクル』(1994~95年、新潮文庫)は彼がアメリカのプリンストン大学で客員教員をやっていたときに書いたものなのですが、執筆当時は毎週近所のひとたちと集まって『ツイン・ピークス』を見て感想を言い合っていたよと。私の知る限り、村上は『ツイン・ピークス』を『ねじまき鳥』執筆時に観ていたというエピソードを四度も披露しています。これはもう「仄めかし」のレベルを超えた「インスピレーション元の開示」だ、というのが私の確信です。そうやって書かれた『ねじまき鳥』はまさに『ツイン・ピークス』的な話で、倒すべき悪が具体的な登場人物である綿谷昇なのか、あるいは綿谷昇に取り憑いたなにかだったのかは最後まで曖昧です。これは村上春樹が『ツイン・ピークス』をパクったという話ではありません。彼はその前の「長い長編」である『ダンス・ダンス・ダンス』(1988年、講談社文庫)でも、さらに遡れば初長編の『羊をめぐる冒険』(1982年、講談社文庫)でもこのテーマを扱っていました。

 村上春樹は1949年生まれで、デヴィッド・リンチは1946年生まれです。村上は「同時代としてのアメリカ」(文芸誌『海』に連載、単行本未収録)という超一級の文明批評を若かりし頃に書いていますが、まさにリンチを同時代人として「自分とおなじ問題を追求している」と感じながら『ツイン・ピークス』を観たのだと思います。

 そして、村上とリンチがともに追いかけ続けた「憑依する悪の力/遍在する無形の悪」というテーマは、村上自身がよく言っている「地下2階」の想像力とも密接に結びつく。村上の「地下2階」の話がもっとも整理されたかたちで出てくるのは川上未映子との対談『みみずくは黄昏に飛びたつ』(2017年、新潮文庫)です。同書では人間の想像力が一軒家にたとえられている。簡単にまとめると、1階はひとと社交する公共の空間、皆が団欒するリビングのようなもの。2階には自分だけのプライベートな空間、つまり自分一人の部屋。しかし、人は誰しも地下1階に個人の無意識としてのドロドロした世界を持っている。ここまではパブリック/プライヴェート/無意識、というわかりやすい整理ですが、村上はさらに、ふとした瞬間にさらに下にある地下2階の空間に人間は降りていき、そこで他者と通じあってしまうのだ、と述べる。村上は、ざっくり「日本の私小説的な地下1階の世界はなるべくスルーして、地下2階にアクセスすることを目指している」ということをよく言っている。地下2階の空間はユングの「集合的無意識」とも言い換えられるし、図式的に言ってしまえばグローバル化やインターネットの比喩でもあります。東京なりアメリカの片田舎なり、『夏帆』で言えばブラジルのジャングルなり、地球上のどこにいたとしても、ふとした拍子にどこかとすっとつながって“悪”を招き寄せてしまうという想像力が、村上春樹とデヴィッド・リンチに共通しているんです。

 そんな村上春樹が2017年に配信された待望の続編である『The Return』を観ていないわけがない。『夏帆』が村上春樹版『The Return』であることを確信したのは、夏帆が武蔵境の「とぎや」でシロアリの女王に取り憑かれた母と会う場面です。ここで、「母親の顔がこわばった。その顔は一瞬、別の誰かの顔に取って代わられたように夏帆には思えた。仮面の奥から別の誰かが(あるいは別の何かが)ほんのちらりと顔を見せたみたいだった」という描写がある。これはネット上でミームにもなっている『The Return』の有名なシーン――ローラ・パーマーの母親が自らの顔を仮面のように外して別の顔がのぞく――を明らかに意識しています。

 25年ぶりの続編としての『The Return』最大の肝、それは、前作では“悪”を代表していた「ボブ」でさえもが一部に過ぎなかった、より大きな悪の諸力の根源があり、それが現実世界に染み出している、という世界観の更新です。そして、その新たな“悪の力”がローラ・パーマーの母親に取り憑くわけです。『夏帆』で言えば、「ジャガー」殺しではなく「シロアリの女王」殺しこそが本番だ、ということです。

図式を突き崩す「お前が始めた物語だろ」

 『夏帆』は前半で「ジャガー」を殺し、後半で「シロアリの女王」を殺す話です。いままでであれば、第2章でジャガーを殺すところで終わりなのが、2段構えになっているところが新しい。そして、この2段構えはふたつの図式で説明できます。

村上春樹『1Q84』

 まず、ジャガーは「ビッグ・ブラザー」でシロアリの女王は「リトル・ピープル」に関係します。村上春樹は『1Q84』(2009~10年、新潮文庫)でジョージ・オーウェルの『1984年』(ハヤカワepi文庫)を読み替えました。オーウェルが監視社会のディストピアを支配する巨悪としてビッグ・ブラザーを描いたのに対し、村上は悪かどうかも曖昧な謎の存在であるリトル・ピープルを印象的に登場させた。『夏帆』のジャガーはジャングルの王で、草食動物みなが恐れる存在です。でも、ジャガーと密月関係を結んでいたシロアリ女王はありくいにとってはとくに恐れるに足らない。この「ジャガー=ビッグ・ブラザー/シロアリの女王=リトル・ピープル」というのはあまりに図式的だと思われるかもしれませんが、これも根拠になる描写があります。終盤、夏帆が実家に戻ってシロアリの女王と対峙する前哨戦のような場面で、彼女が金縛りのような状態になるところです。その金縛りの比喩が、「小さな人々に捕らえられ、よってたかって地表に縛り付けられたガリバーみたいに」というものになっている。つまり、シロアリがリトル・ピープル的なものとして扱われているのはほぼ間違いない。その上でシロアリの「女王」とはなんなのか、リトル・ピープルを支配するなにかが存在するのかは議論の余地がありますが、すくなくともこの点で『夏帆』は『1Q84』を通過しないと出てこなかった作品なわけです。

 次に、村上春樹を論じるためのキーワードとして「デタッチメントからコミットメントへ」というものがあります。これは『ねじまき鳥クロニクル』を書いた直後の河合隼雄との対談『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』(1996年、新潮文庫)で村上自身が言いはじめたことで、いわばセルフ・プロデュースがうまくいったものなのですが、いずれにせよ『夏帆』の前半から後半への展開はまさにこの「デタッチメントからコミットメントへ」の図式に当てはまります。前半でジャガーを殺すときには、うしろからありくいの夫に押されるかたちで相手を刺す。けれども、シロアリの女王を殺すときには直接の助けは得られず自分でやるしかない。

 ただ、この「デタッチメントからコミットメントへ」のあまりに図式的な構造は、『夏帆』の作品内で突き崩されてもいます。というのも、この作品では夏帆が自身の「物語」をいかに引き受けて作っていくかが大事なのだということが何度も言われるわけですが、前半のジャガー殺しの時点でありくいの夫が「なぜならばこれはあなたが始めたことだからですよ」と言っているからです。「お前が始めた物語だろ」という『進撃の巨人』(講談社)に出てくる有名なセリフを想起させる発言で(個人的には近年の米国プロレス団体WWEでのストーリーラインも思い出しました)、ここがこの小説の面白いところであり、もっとも謎に満ちているところでしょう。つまり、夏帆がいったいなにを始めたんだと問わざるを得ない。ふつうに読めば夏帆はこれまでの村上作品とおなじく“巻き込まれ型”の主人公なのに、自分からなにかの物語を始めたのでオチをつけなければいけないという話になってしまっているんです。

 仮説としては、そのことで村上はいまの世界をデタッチメント不可能な空間、、、、、、、、、、、、、として描こうとしているのかなと考えています。グローバル化がさらに進展して、いままでは地下2階だったものがすでに地上に出てきてしまっている世界とも言いかえられるかもしれません。つまり、『ねじまき鳥』では主人公が悪と対峙するために「井戸」に潜る必要があったわけですが、夏帆はとくにそういうことはしない。なにもせずともいきなりブラジルのジャングルと武蔵境がつながっていますし、現実と夢の世界ももっとダイレクトに隣りあっていて、思わぬコミットメントが要請される。翻ってわれわれがいま生きている世界はどうなっているかというと、グローバル化が進展しすぎた反動でトランプ大統領のあり方に代表されるナショナリズムが復活しているわけです。いわば“グローバリズムの第二形態”としてのナショナリズムの時代である現代が、『夏帆』のコミットメントの描き方に出ているのではないか。

村上春樹の描くグローバリズムと日本

 このグローバリズムとナショナリズムの話を村上春樹作品全体の文脈に置き入れるのであれば、もう一度『1Q84』について考える必要が出てきます。

三浦玲一『村上春樹とポストモダン・ジャパン――グローバル化の文化と文学』(彩流社)

 すこし迂回しますが、2013年に急逝した私の恩師・三浦玲一の『村上春樹とポストモダン・ジャパン――グローバル化の文化と文学』(彩流社)を取り上げましょう。三浦先生はこの本で、村上春樹をグローバル文化そのものかつ新自由主義のあり方を表象する文学として読み、その極致として『1Q84』を置きます。ここでは議論をごく簡単にしか紹介できないので、気になった方は実際の本を手にとってほしいです。

 三浦の定義では、新自由主義の文化は「労働の消滅=労働が描かれないこと」と「革命の不可能性」を特徴として持ちます。そして、『1Q84』は映画『タイタニック』やカズオ・イシグロ『わたしを離さないで』(ハヤカワepi文庫)から流れを引き継ぎつつ新自由主義の論理を最も端的に表現した小説だということを鮮やかに示します。主人公の青豆と天吾はいずれもクリエイティブ・クラスに属する人間で、泥臭い労働ではなく自身のアイデンティティを維持管理することが生計を立てることにつながっている。そして、学生運動のなれの果てや新興宗教といった社会的な問題に巻き込まれつつも、最終的には“ふたりが出会って愛が成就すれば幸せになれる”というラブ・ストーリーのかたちでしか世界の変革を想像することができません。BOOK3ではクリエイティブ・クラスにもなれず恋愛もできない牛河が主人公に追加されますが、彼はリトル・ピープルの餌食になります。つまり、そういった逆説的なかたちでしか新自由主義の外部は描けないことを表現した小説が『1Q84』であると。三浦の議論では、新自由主義とグローバル化はほぼイコールになります。ただ、三浦先生は村上作品で言えば『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』(2013年、文春文庫)までしか読むことができなかったし、16年にトランプが大統領選挙で勝った後の世界を知ることもありませんでした。

 いまの世界を知っている立場から読むと、『1Q84』はじつは村上春樹が世界的な作家から日本の作家に戻った転換点として読める、と私は思っています。それまでの村上作品は、ちゃんと読めばすべて日本のどこかを舞台にしているものの、究極的にはどこでもいい話として書かれていました。デビュー作の『風の歌を聴け』(1979年、講談社文庫)は神戸近郊の話だし、『海辺のカフカ』(2002年、新潮文庫)だって四国の話なんだけど、あくまで抽象的な都市小説として私たちの生きているポストモダンな世界を描いていたわけです。つまり日本の地理の知識や文化的背景なんて不要。だからあれだけグローバルに読まれた。しかし、『1Q84』は明確に日本の話として描かれています。それを感じたのは、BOOK3の第6章と9章で天吾が焼肉を食べて生ビールを飲み、スナックのカラオケで井上陽水を歌い、そのあとある女性の部屋でハシッシを吸う、というシーンが出てきたときです。私はひっくり返りました。これはそれまでの村上だったら絶対に書かない。焼肉ではなくカツレツを食べ、生ビールではなくウィスキーを飲み、スナックのカラオケを歌うのではなくバーでジャズを聴き、(村上龍と対照的に)ドラッグなしでクールにキメていたのが村上春樹的「僕」じゃないのか……!

 それに、そもそも『1Q84』というタイトルだって、日本人にしかわからないダジャレです。ハリ・クンズルという現代アメリカ文学の作家も、『1Q84』から春樹が分からなくなったと言っていますが、そりゃそうだ、最初から分かるように書いていないんです。(少しだけ話がそれますが、それは国内で絶賛された『シン・ゴジラ』が海外では全くウケなかったことと同じです。コンテクストがドメスティックで決してグローバルに共有され得ない。そしてカタカナタイトルの面白さは日本語話者以外まったく通じない)

 そういうわけで、『夏帆』はリトル・ピープルの再登場やグローバリズムとの距離感という点で、『1Q84』以降の流れのなかにある作品なのは間違いない。繰り返しますが、その上で“グローバリズム第二段階”(のナショナリズム)の小説になっている。

 しかし、『夏帆』では『1Q84』と違って恋愛も社会的な問題もほとんど描かれません。卑近な言い方をすれば、「夏帆がだれかと付き合うかな」という興味で読み進めさせるところはまったくない。これはきっぱりしていてとても好きでしたし、今回の読みやすさや面白さにもつながっています。けれども、それは「少し短い長編」としてシンプルな構造の物語を書いたがゆえである可能性もあって、もし次に「長い長編」が書かれるとしてそのあたりがどうなるのかは要注目です。

 最後に恋愛に関係する点でひとつだけ文句をつけるとすれば、夏帆の母親の不倫が悪いこととして描かれているのはいかがなものかと思いました。ありくいだって一夫一婦制をやたら強調します。これまで村上春樹は、『1Q84』の天吾に典型的なようにずっと人妻と不倫する若い男を描いてきたのに、ここに来て50歳を越えて娘も産んだ既婚女性が不倫することを否定するのはさすがにミソジニーと言わざるを得ないだろうと。何をお行儀良くなってるんですか、50過ぎた既婚女性の性欲も今までみたいに肯定して書いてくださいよと。

 散々言いましたが、いずれにせよ、これから村上春樹の新作長編が何冊読めるかもわからないので、エンジン全開で書きたいものを書いてほしいと思います。デヴィッド・リンチは世界から去りましたが、まだ村上春樹はいる。今回の『夏帆』は来るべき「長い長編」への助走だと信じたい。ここから真の『ザ・リターン』が来る。そう願って止みません。

■書誌情報
『夏帆─The Tale of KAHO─』
著者:村上春樹
価格:2,860円
発売日:2026年7月3日
出版社:新潮社

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