天才脚本家チャーリー・カウフマンが書いた奇書『アントカインド』(定価1万5400円!)を読む【前編】

奇書『アントカインド』を読む【前編】

 小説『アントカインド』が話題を呼んでいる。ひとつは、この小説が『エターナル・サンシャイン』(2004年)でアカデミー脚本賞を受賞した脚本家・映画監督、チャーリー・カウフマンの小説デビュー作であること。そしてさらに、邦訳版の定価が1万5400円(税込)であることだ。い、1万5400円!! これは前代未聞である。

 いや、もしかしたら僕が食っちゃ寝している間に世間では紙の高騰が進み、海外小説はこれくらいの価格が普通になってしまったのだろうか。慌ててAIに問うと「小説で定価1万5千円になることは、一般的な単行本や文庫本では考えられず、特別な装丁、長大な作品、限定版、あるいは専門的な内容を持つ豪華本などである可能性があります」との答えが返ってきた。しかしAIをいまだに信じていない僕はその足で町の書店に向かい、陳列されている本を一冊残らず裏返し価格をチェック。やはり高くても3000円ほどである。どうやら異常事態が発生しているのは『アントカインド』に限ったことらしい。

 では、件の本を手に取ってみよう。640ページの重量感が手から肩の筋肉を刺激する。書籍本体を包み込む外箱のデザインは実に秀麗だ。くりぬかれた個所から書籍のカバーを彩る淡い虹色が顔を覗かせている。かすかに摩擦を感じさせる外箱の手触りは「もし手の汚れがこの純白の箱を汚してしまったら」と手に取る者の姿勢を正させる妙な迫力を放つ。高級な料亭に入ったら何となく背筋が伸びてしまうような感覚だ。なので一度手を洗って汚れを落とし、そのうえでティッシュを用いて包み込むように外箱を持ち、そのまま書籍本体をスライドさせて取り出してみる。虹色に怪しく光を放つ表紙、そして外箱を除いても変わらぬ重み。ただ書籍を箱から取り出すだけでドッと疲れた。このままページを読み進むことは難しそうなので、この日は外装を小一時間眺めまわし、床に就くことに。

カバーに収めた状態。
カバーから出した状態。

 そういえば10月3日から『ワン・バトル・アフター・アナザー』(2025年)が公開される。結局この映画はトマス・ピンチョンの『ヴァインランド』をどれほど下敷きにしたものなのだろうか。どうも直接の映像化ではなさそうな様子。予告編を観ると少しは分かりそうだが、かなり楽しみなので全ての情報をシャットアウトして映画に臨むことにする。現時点で僕の持っている情報は主演がレオナルド・ディカプリオであることだけだ。

 『ワン・バトル・アフター・アナザー』のことを考えていると数日が経過してしまったので、今なお『アントカインド』の小説世界に踏み込めていない。そこで気持ちを切り替えるために著者であるチャーリー・カウフマンのことを考えてみる。僕がその名を意識したのはご多分に漏れず『マルコヴィッチの穴』(1999年)だ。入ると個性派俳優ジョン・マルコヴィッチと同一化できる不思議な穴にのめり込む人々の物語。大学生の頃に図書室で観たのだが、素っ頓狂なコメディと思いきや、他者の目線で世界を窃視することに対してのニヒリズムが満ちており、これは匿名掲示板や当時流行ってきていたSNSで自分と異なる別人格を作り出して他者と接するデジタル・ディスコミュニケーション時代を予見していると感じたことを記憶している。しかしいま考えると、カウフマンは未来予知に重きはおいておらず、自己と他者を隔てる境界の曖昧さと、そこに踏み込みすぎることで起きうるアイデンティティの本質的恐怖について描いているのだろう。

 とはいえSF要素はカウフマンのお手のものであることを忘れると、氏の作品を語るにあたって片手落ちとなってしまう。『エターナル・サンシャイン』は記憶を消去する手術を受ける恋人たちの別離と再会を映す「きれいなカウフマン」とでも言うべき一作。時間軸の捻り方にはカウフマンのいたずら心が見えるが、素直に良い映画だ。不死を達成した世界で、死にゆく最後の老人が「もしも…」と願望交じりに自分の「こうありたかった」人生を語る独白系SFドラマ『ミスター・ノーバディ』(2009年)や、あるカップルが紡ぐ複数の「イフ世界(マルチバース)」が織りなすミニマルかつ壮大なSF恋愛映画『COMET コメット』(2014年)は『エターナル・サンシャイン』の系譜にあると言ってよい。

 カウフマン自身はフィリップ・K・ディックへの傾倒を公言しており、あくまで要素としてだがSFを自作に取り込む傾向がある。そもそも記憶と自己、すなわちアイデンティティという題材もディックのお手のものではなかったか。自我とは記憶の集積により構成されるのか、あるいは…。ディックが発した問いかけは確実にカウフマンの作品にも転写されている。

 先に記した『COMET コメット』のサム・エスメイル監督の新作はNetflix映画『終わらない終末』(2023年)。『失われた週末』(1945年)や『長く熱い週末』(1980年)を想起させるタイトルだが、そもそも僕はNetflixに加入していないのでこの映画を観ることができない。ゆえに詳細が分からない。正確に言うとこれまでは友人のアカウントにタダ乗りしていたのだが、同じWi-Fi環境下でないと接続を弾かれるようになってしまったので、Netflixにログインできなくなったのだ。なので楽しみにしていたエド・ゲインのドラマシリーズを観ることもできなくなってしまった! まったく世は理不尽ばかりである。

 話がそれてしまった。カウフマンがその本領を発揮した作品として、悩める脚本家カウフマン自身をニコラス・ケイジが演じる『アダプテーション』(2002)と、初監督作品となる『脳内ニューヨーク』(2008年)が挙げられよう。これらの作品に横溢しているものは現実と作品世界の境界をドロリと溶かす、虚実入り混じるメタ感覚だ。創作者(カウフマン)が創作者(映画の主人公)を描き、さらに創作者(映画の主人公)の創作物(作品世界)も同時に展開される。この入れ子構造は観る者を煙に巻き「結局どういう映画だったのだろう?」とハテナを残す。特に『脳内ニューヨーク』にそれは顕著で、興行的には致命傷級の大コケを記録してしまった。

 『脳内ニューヨーク』は、パッとしない日常を送る売れない劇作家ケイデンを主人公とした物語。妻や娘との関係も最悪、人生ままならない彼のもとに権威ある賞の受賞と賞金の獲得という朗報が飛び込む。そこでケイデンは大金を投じて、自身が思い描くニューヨークのセットを建て、そこで夢の舞台を上演しようと考える。先に述べた通り、ケイデンの描く舞台劇と現実世界が錯綜する作りとなっているので、非常に難解な印象を与える作品だ。ままならない現実と思い描いた夢。夢を実現しようとしても果たせぬ虚しさ。そういった人生の苦みが迸るヒューマンドラマと消費することも可能だが、原題に思いを馳せると本作の見え方も変わってくる。

 『脳内ニューヨーク』の原題は『Synecdoche, New York』。「Synecdoche」とは「シネクドキ」、言語認知学で「提喩」を表す言葉だ。と言ってもなんのこっちゃであるので、辞書引き程度の解説を行う。提喩とは、具体的な事物がより大きなものを指すこと、あるいはその逆を示す。「お茶に行く?」という言葉が良い例だろう。ここで言う「お茶」とは、必ずしもそれを指さない。喫茶店に行って、頼むのはコーヒーやパフェでも良いわけだ。それらの大きな括りが「お茶」という言葉に集約される。「飲食物全般」(上位カテゴリ)が「お茶」(下位カテゴリ)に集約されるわけだ。実際、「お茶行こう」と言われてお茶以外を頼んだら「お茶って言っただろ!」と殴られるなんてことはない。ゆえに我々の意味世界において、この包含関係が共通の了解として成立していると言えよう。逆に「お花見」といったように、花という上位カテゴリが桜というより具体的な下位カテゴリを指すこともある。これがシネクドキだ。

 「シネクドキ、ニューヨーク」とは提喩と都市の名が併記されているタイトルだ。では、ニューヨークとの包含関係は何と接合されるかと考えると、それはもちろん主人公のケイデンである。つまり、ケイデンそのものがニューヨークであり、またニューヨークがケイデンであるのだ。「つまり」が成立していないような書き方となってしまったが、これならばどうだろうか。自分が世界であり、世界もまた自分であるのだ。そう、カウフマンの作品は常に独我論に根差したものである。独我論とは「自分の意識が現実そのものであり、世界や他者は自分が作り出したものである」という考え方。マルコヴィッチという「他者の象徴」の目を通して世界を認識する行為、記憶を消去して他者を自己=世界から排除する行為、自己認識上の世界を顕現させる行為、すべてが独我論的思考に裏打ちされているのだ。こう言い換えてもいい、カウフマンの作品は独我論を映像に落とし込む実験なのである。

 実験と言うとなんだか敷居が高く思えてしまうが、しかし映像的にこれほどに面白いことはない。世界が個人の自己認識上にあるのならば、その見てくれは世間の常識からいくらかけ離れていても構わないのである。『脳内ニューヨーク』における燃え盛る家に住む女性なんて、実に愉快なビジュアルではないか。その「面白み」を強く意識している以上、カウフマン自身が独我論を妄信しているわけではなく、独我論を基に作品を作ることに憑りつかれた作家であると見ることができよう。

 ここまで書いて、再び『アントカインド』の表紙に目を見やる。「アントカインド」という単語は、どうやら「アント(蟻)」+「カインド=マンカインド(人間)」を組みわせたものらしい。蟻人間…? 蟻人間といえばジョー・ダンテが監督した『マチネー 土曜の午後はキッスで始まる』(1993年)の劇中映画『MANT!』を思い出してしまう。『マチネー 土曜の午後はキッスで始まる』はキューバ危機に揺れる1962年、アメリカの郊外都市を舞台にした少年少女の青春劇。『MANT!』は主人公たちが集う劇場で上映されるSFホラーだ。50年代よりブームとなった怪物映画のテイストをそのままに、蟻人間の恐怖を描いた作品となる。そしてなんと、こちら劇中映画にもかかわらず全編が撮影されているのだ。ジョー・ダンテのオタク的こだわりがみなぎっており、本編に負けず楽しい仕上がりとなっている。

 さて、脱線が続いて一向に『アントカインド』のレビューに入らないので、イラつきを感じている読者諸賢も多いのではないだろうか。1万5400円もする書籍であるがゆえ、スッと手に取るにはハードルが高い。でもきっと刷られた数も少ないはず、いま買っておかないと近い将来、読めなくなるかもしれない。その踏ん切りをつけるためにブックレビューに目を通しておくことは賢明な行為である。あなたは正しい! だから本書の読みどころ、所感、そして価格に見合う価値を有しているかどうかを簡便に知らしめたい、そんな気持ちもある。だが『アントカインド』はそんなに甘い本ではない。このレビュー以上に脱線、混線、曲線が連続する『脳内ニューヨーク』を超えた独我論世界のパノラマなのだから。では満を持してページをめくり、本書の世界について語ってゆきたい。…えっ、字数オーバー? そうなんですね。では、ここまで読んでくださった方々には申し訳ないけど、続きは後編にて!

後編はこちら

■書誌情報
『アントカインド』
著者:チャーリー・カウフマン
翻訳:木原善彦
装丁:川名潤
価格:15,400円(税込)
発売日:2025年8月27日
出版社:河出書房新社

関連記事

リアルサウンド厳選記事

インタビュー

もっとみる

Pick Up!

「書評」の最新記事

もっとみる

blueprint book store

もっとみる