「立ち読み」はいつ始まり、庶民の読書文化を形作ってきたのか? 謎多き近代出版史に迫る一冊

「立ち読み」はいつ始まったのか?

 冒頭で筆者は、立ち読みが発生するためには、まずそれが可能となるように環境が整備されている必要がある、という由を述べた。じっさいに本書でも、「座売り」から「陳列販売」へという環境の変遷が、ひとつのパラダイムシフトになったことが着目されはする。しかし、立ち読みが成立するためには、一人ひとりの読者の自主性や能動性が、大きな要となることもまた事実なのだ。

 立ち読みの享受者は、庶民、使用人、学生、子どもという、常にお金に不自由な人々であったことが、本書の後半では強調される。身分や経済によって閉ざされがちだった読書への道、ひいては誰もが知へのアクセスが可能となり、知を積極的に欲するようになった近代への道は、ある意味では立ち読みによって舗装された側面もあるのではないか。そのようなことも、本書を読む過程では感じられてくる。じっさいに小林も、立ち読みの持つ正の可能性を力説しているが、終盤に登場する以下の文章には思わず感じ入ったので、ここに引用したい。

「立ち読み」は、ふつうに考えると雑誌をてんでバラバラに取り上げて読むという、無責任な行為に思われる。が、しかし、歴史的に巨視的に考えると自主的に個別のメディアを選び、個人で享受するという極めて近代的な行いだったと言えるのではあるまいか。自立した個人という近代的な人間のあり方に期せずして影響を与えたのでは、といった大きなことも言いたくなってくる。(本書174ページ)

「立ち読み」によって読書や知への自主性・能動性を養い、さらなる知を求めて次のステージへ――。意識はせずとも、現代の日本においては、大多数の人がこうした過程を一度は踏んでいるのではないか。

 近年では、冒頭に述べたようなコンビニにおける雑誌取り扱いの縮減、また本書でも触れられるように、そもそもの雑誌文化の衰退、シュリンクパックの拡大、ネット書店の台頭などで、習俗としての「立ち読み」はいささか影を潜めつつある。しかし、書店に行けばいまも立ち読みをする人は随所に見受けられるし、筆者も自然と、まだ見ぬ本を手に取り、その中身に目を通したくなる。私自身も当事者として、「立ち読み」という習俗、いや、もはや文化を後世に伝える一翼を担いたい。本書を読み終えた今では、そのような思いも生まれている。

 あ、念のため補足を。書店員さんからすれば、もちろん立ち読みに終わらず、客が本を購入してくれることが望ましくはあるだろう。したがって、筆者は立ち読みをした書店では、そうした環境を可能にしていることへのお礼も兼ね、最低1冊は本を購入することにしている。言うまでもなく、これは筆者の個人的なスタンスに過ぎないので、無視していただいてもまったく問題はない。ただ、ここまで読んでいただいた心優しい読者の方には、立ち読みの文化を守るために、この「セット」を心の片隅にでも留めておいていただければ幸いです。いささか逆説的なお願いとなってしまい恐縮ですが、なにとぞ。

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