杉江松恋の新鋭作家ハンティング わかりやすい物語を拒絶する『救われてんじゃねえよ』の鋭さ

前述したように父親には生活破綻者の要素があり、母親も沙智に対して過度に依存して勉強、就職活動その他を妨げようとする。沙智がそこに囚われてしまうのではないか、と読者ははらはらするだろう。沙智は親を観察する。介護が必要になってから両親がセックスする回数は増えた。そして生活不能者である父親は、スマートフォンの画面でAVを鑑賞する趣味があるらしい。そうした下半身事情がわかってしまう家の広さであることにうんざりしつつも、沙智はこう考える。
——人には隙がある。わたしを怒鳴りつけたとしても、その一時間後にこの人はトイレで一人さびしくシコって寝るんだなあって考えると、憎むに憎めない。だからわたしは心の底からこの家から逃げたいとは思えないのかもしれない。悲しいことに、現実に悲劇なんてものはない。
すべてを喜劇として回収することで、沙智は決定的な悲劇の主人公になることから免れているのだともいえる。本作には単純な二項対立を回避する原理が働いている。病身の親がヤングケアラーである子の機会と未来を搾取している、というのが最もありがちな対立関係だ。そうした物語の中に現実を落とし込むこと、わかりやすい解釈の中に自分の生み出した主人公が陥ることを全力でこの作者は防ごうとしている。
どの作品も印象的な終わり方をする。同賞受賞の宮島未奈は『成瀬は天下を取りに行く』(新潮文庫)で成瀬あかりという最強の主人公を生み出し、彼女の力で歪んだ世界が修復されるという物語をさまざまなパターンで書いている。これは素晴らしい発明だった。上村がやっているのは、その対極ともいうべき技法だと思う。どんなに世間が便利な定規を持ってきても、ことごとくそれを外して逃亡するという語りだ。本当に巧い。どんな関節技でも抜けてしまう。このわかりやすさを拒絶する姿勢に惚れ惚れとさせられた。わたしはわたし。誰もそれを奪えない。上村裕香はそう断言する。毅然と、堂々と。























