古賀史健の『なぜ人は自分を責めてしまうのか』評:カオスでしかない世界を説明する「極限の言葉」とは

公認心理師・臨床心理士の信田さよ子による新書『なぜ人は自分を責めてしまうのか』(ちくま新書)が、各所で話題を呼んでいる。同書は、「すべて自分が悪い」というふうに自分の存在を否定することで、世界の合理性を獲得しようとする「自責感」とどう向き合うかに迫った一冊だ。
『嫌われる勇気』(ダイヤモンド社)や『さみしい夜にはペンを持て』(ポプラ社)などの著者として知られ、3月19日に上梓した最新刊『さみしい夜のページをめくれ』(ポプラ社)も話題となっている株式会社バトンズ代表・古賀史健氏も、同書に大きな感銘を受けたという。古賀史健氏に、同書のレビューを寄稿してもらった。
「罪悪感」と「自責感」は別のもの
奇跡的な構成による、奇跡的な一冊である。公認心理士・臨床心理士である著者の生き生きとした、嘘もごまかしもないあけすけな言葉が、目と耳に響いてくる。心を強く揺さぶってくる。コロナ禍をきっかけにはじめたオンラインでの公開講座の中から、特に反響の大きかった回をまとめたものらしい。
そのせいだろうか。『なぜ人は自分を責めてしまうのか』というタイトルとは裏腹に、第1章は「母はまだ重い」というテーマからはじまる。著者の出発点とも言えるアダルト・チルドレン(現在の生きづらさが親との関係に起因すると認めた人)や、その先で出会った母との関係に苦しむ女性たちの話だ。著者を知らず、自責感情についての知見や分析を求めて手に取った読者からすると、やや面食らうはじまりと言えるかもしれない。通常の新書であれば、「自責感とはなにか」といったあたりからスタートするのが、このタイトルに見合った構成だ。
しかし、読ませる。母娘問題がクローズアップされるまでの歴史的経緯を概観しながら、SNSや自己啓発本にあふれる俗説を退け、時に「NGワード」まで持ち出しながら啖呵を切っていく著者の声が、その自信と迫真が、どんどんと次を読ませる。
第2章以降も同様だ。章タイトルだけ拾っていくと、第2章が「共依存を読みとく」。第3章は「母への罪悪感と自責感」。第4章に至っては「逆算の育児」と、ほとんど自責感情と関係のないテーマのように思える。じゃあ本書は、タイトル詐欺の不誠実な一冊なのか。
違うのだ。第1章から第4章にかけて著者は、着々と外堀を埋めていたのだ。最終章のタイトルであり、本書のタイトルでもある『なぜ人は自分を責めてしまうのか』という最大の問いに向かって。
著者は言う。「罪悪感」と「自責感」は別のものであり、切り離して考えたほうがいい。そして罪悪感とは、自らの外部(言わば社会)の規範に背いたとき、生じる感覚である。本書で指摘されるのは母への罪悪感だ。母性愛という言葉からもわかるように、現代日本のなかで母親の愛は「疑ってはならない規範」として、言わば神格化されている。だから母親の支配(多くの場合それは「愛」の仮面を被っている)から自由になろうとするとき、娘たちは「親不孝者」の烙印を押され、猛烈な罪悪感に苛まれる。著者はこれを、自由を得るための「必要経費」だと論じる。
それに対して自責感とはなにか。自責感に外部の規範は関係ない。自分はなんの罪(社会規範からの逸脱)も犯していないにも関わらず、自責感は生じる。そして自分で自分を追い詰め、どこまでも責め立てていく。いったいなぜか。
著者がアダルト・チルドレンにはじまる母娘問題を論じ(第1章)、母による支配の構造にメスを入れ(第2~3章)、望ましい育児のあり方まで提示(第4章)してきた意味が、ここで明らかになる。ここまで外堀を埋めるように語られてきたのは、すべて親と子の権力格差がもたらす「虐待」の話だったのだ。
虐待とはなにか。著者によるとそれは、文脈のない世界に生きることである。非合理的な世界で、生存を脅かされ続けることである。家庭なら家庭の中で規範が一貫せず、今日褒められたはずのことについて、翌週には怒られる。また、転んで「痛い」と口走ったときにも、「痛くないでしょ」と否定される。感情の言葉を封じられ、やがて感情そのものまで奪われていく。もちろん、殴ったり蹴ったりの身体的暴力も、文脈化することができない虐待だ。
しかし、そうしたカオス的な環境を、なんの合理性もない世界を説明(文脈化)する言葉が、ひとつだけ存在する。それが「みんな自分のせいなんだ」という自責の言葉なのだ。






















