やなせたかしの仕事は『アンパンマン』だけじゃないーーその激動の人生とマルチな才能

やなせたかしの仕事は『アンパンマン』だけじゃないーーその激動の人生とマルチな才能

 3月31日からNHKで放送が始まる連続テレビ小説『あんぱん』は、絵本やアニメで大人気の『アンパンマン』を生み出したやなせたかしを支えた妻、暢子がモデルの浅田のぶをヒロインにしたドラマだ。ノンフィクション作家の梯久美子が3月6日に刊行した『やなせたかしの生涯 アンパンマンとぼく』(文春文庫)は、やなせの下で編集者として働いた著者がやなせの幼少期から最晩年まで振り返りつつ、暢との出会いや『アンパンマン』が大人気となるまでのマルチな仕事ぶりを紹介してドラマを楽しみにさせる。

 「アンパンマン」の生みの親。それが、やなせたかしに対して大勢の人が抱いているイメージだろう。だが、94歳でやなせたかしが亡くなるまでの生涯において、『アンパンマン』の生みの親として広く知れ渡ったのは、後期にあたる3分の1程度に過ぎない。

 フレーベル館で『アンパンマン』の絵本が出て子供たちに読まれるようになり、「息子の通っている幼稚園で、手垢まみれのアンパンマンの絵本を見たんです」(『やなせたかしの生涯 アンパンマンとぼく』)より)と言って日本テレビの武井英彦プロデューサーがアニメ化を持ちかけ、1988年からTVアニメ『それいけ!アンパンマン』が始まってようやく、世間はやなせと『アンパンマン』の存在を広く知るようになった。

 1919年生まれのやなせは、その頃すでに70歳近くになっていた。翌年に60歳で亡くなった手塚治虫が、ずっと以前から「漫画の神様」として誰もが知る存在になっていたのとは大きな違いだが、だからといってやなせが無名だった訳ではない。その手塚から乞われて劇場アニメ『千夜一夜物語』(1969年)に美術監督として参加し、続いて短編アニメーション『やさしいライオン』(1969年)を監督して、虫プロダクションとして歴史ある毎日映画コンクールの大藤信郎賞を受賞していた。

 宮﨑駿監督の『ルパン三世 カリオストロの城』(1979年)や高畑勲監督の『セロ弾きのゴーシュ』(1982年)が受賞するより10年以上も早い栄冠を、やなせはアニメ界で得ていたとも言えるが、活躍はそこだけに留まらない。今も大勢の人が口ずさむ童謡「手のひらに太陽を」を作詞したのが1961年のこと。他にも、後に「上を向いて歩こう」を作詞する永六輔に乞われて舞台美術を手がけたり、Netflixで再ドラマ化された『阿修羅のごとく』の脚本を書き、小説で直木賞を受賞する向田邦子に連続TV映画の脚本を依頼したりとマルチな活躍をしていた。

 老舗百貨店の三越で今も使われている包装紙のリニューアルを担当し、洋画家の猪熊弦一郎がデザインしたモダンな模様の中に自筆で「MITSUKOSHI」という文字をレタリングして添えたのもやなせだ。評伝『やなせたかしの生涯 アンパンマンとぼく』にはそうした『アンパンマン』以前のやなせたかしの仕事ぶりが紹介されていて、とてつもない才人だったことをうかがわせる。

 評伝ではさらに、朝日新聞記者を父親として誕生し、その父親が特派員として赴任していた広東で客死した頃は高知県で暮らしていたこと、成績優秀で後に京都大学に進む弟に劣等感を抱いていたことも綴られている。漫画に出会ったのもそうした暮らしの中でのこと。読むだけでなく自分でも描くようになり、雑誌や新聞に投稿して賞金をもらったそうだ。

 やがて進学となり、絵の勉強がしたいからと東京高等工芸学校の図案課に進み、学校のある田町から銀座に出て映画を見まくっていたというから実に楽しそう。ところが、中国との戦争が続く中で今の田辺三菱製薬に就職していたやなせも徴兵され、中国の福州近くに出征する。

 そこから上海まで、1000キロを行軍することになった時、かつて上海にあった東亜同文書院の学生として父が同じようなルートを歩き、残していた記録を思い出しながら行軍を生き延びたやなせは、「父が自分を守ってくれたのだと思った」そうだ。暢をモデルの女性がヒロインの朝ドラで、やなせたかしのそうした苦闘がどこまで描かれるのかは分からないが、紹介されれば『アンパンマン』の生みの親の人生の激動ぶりに、驚く人も多そうだ。

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