「世界」編集長・堀由貴子インタビュー「自分の居場所だと思ってもらえる雑誌にしたい」

「世界」編集長・堀由貴子インタビュー

 「世界」は、岩波書店が1946年に創刊した総合誌であり、いわゆる論壇誌である。2022年10月には堀由貴子氏が編集長に就任し、2024年1月号から四半世紀ぶりのリニューアルを行った。従来、論壇誌は中高年男性が手にとるイメージが強かったが、女性や若い世代も読者にとりこもうとする新しい「世界」は、どこへ向かおうとしているのか。(円堂都司昭/4月23日取材・構成)

震災の時に少し腹がすわった

堀由貴子氏

――学生時代に興味があったジャンルはなんですか。

堀:映画が好きで、小説や、批評などどちらかといえば人文書に興味がありました。四方田犬彦さんの『アジア映画の大衆的想像力』、斎藤綾子さんの『男たちの絆、アジア映画』、レイ・チョウの『ディアスポラの知識人』、『ユリイカ』や『太陽』のアジア映画特集号は今も手もとにあります。一時、渋谷のブックファーストでアルバイトをしていて、たしか面陳されていた『香港映画の街角』もよく覚えています。映画『2046』でチャン・ツィイーが赤い回廊を歩いているカットがあしらわれていて、香港大学に交換留学したのも、そのイメージに勝手に導かれたというか、後押しされた気でいます。

――出版社を志望する際は、その種のカルチャー的なものを目指していたんですか。

堀:実は映画をつくりたいと、漠然とした願いをもっていたんです。といっても、実際に制作した経験もなく、映画関係の会社に応募しても「なにがやりたいの?」といわれるとうまく答えられない。就職活動のなかで出版社も受けてみたところ、志望動機が無理せず浮かんできて、そこに行きついた。編集者になりたいというより、仕事で本を読めるのはいいなと。フリーになる度胸がなく、まずは就職しようという気持ちでした。

――そして岩波書店に入社し、最初に配属されたのが……。

堀:「世界」編集部でした。

――憧れていたのとは、だいぶ違う分野ですよね。

堀:岩波書店に関しては、エドワード・サイードや四方田さんの本、武満徹さんの『夢の引用』を読んだり、以前発行していた『へるめす』(文化総合雑誌)など、ひろく文化に関する単行本を思い描いていて、「世界」という職場は想像していませんでした。著者のお名前の読み方を間違えたりして先輩方に呆れられたし、続かないと思ったと言われたこともあります。でも、配属から間もない時期に、足利事件のDNA再鑑定結果で冤罪が決定的になった菅家利和さんのインタビューに同行したんです。先輩の紹介でハワイ大学のデイビッド・ジョンソンさんにお会いし、死刑事件の裁判員裁判に関する論考を担当したり、それまで知らなかった司法や、ジャーナリズムの世界に接し、すごく面白いなと思うようになっていきました。

――それ以前に、論壇誌は読んでいましたか。

堀:定期的なチェックはしていませんでした。書店のアルバイトでは資格書の担当でしたが、ビジネス書、法律書、人文書のフロアでもあったので、「現代思想」「前夜」「大航海」などA5判の雑誌を扱っていました。ただ論壇誌についてはあまりイメージがなかったです。

――最初に「世界」に配属された頃は、短期間での政権交代が続き、2011年には東日本大震災と原発事故が起こった激動の時代でしたよね。

堀:民主党政権の新閣僚や下野した自民党の議員インタビューに同行し、当時の高揚感や後の挫折も見てきました。振り返るとふわっとした気持ちで入社したのですが、震災の時に少し腹がすわったというか、一歩踏み出したのかなと思います。原発事故の直後、しばらく自宅待機となるなか、メールでは様々なやりとりがあり、当時編集長だった岡本厚さん(2013-2021年に岩波書店社長)が、この現実を前に、何を論じるか、論じる意味があるのか。これまでと同じルーティンではいけない、そんなふうに編集部員に語りかけていました。私は恥ずかしながら原発や放射能の性質について無知だったのですが、そうした問いかけや、先輩たちの呼応を受けて、この機会に鶴見俊輔さんのお原稿や、河南省出身の詩人・田原さんに詩を寄せていただけないかなど、自分なりに考え、結果的にもっと編集部に関わるというか、一歩中に入ったような感覚があります。

 その号(2011年5月号)の特集は「生きよう!」でした。連載は全部やめて震災のことだけを扱った特別編集号で、重版になるなど反響も大きかったです。

――震災以後にも印象深い出来事はありましたか。

堀:声をあげる人の声をまっすぐ受けとめる、そして不条理を伝える、ということを無意識のうちに重ねてきたと思います。検察不祥事の流れを受けてつくられた法制審議会の特別部会に参加した周防正行さん、新国立競技場プロジェクトの巨大さ、杜撰さを指摘した槇文彦さんなど、雑誌にご登場いただいたあと、書籍を担当した企画がいくつかあります。

 2017年に伊藤詩織さんが司法記者クラブで性加害を告発する会見をされ、文藝春秋から『Black Box』が出るタイミングでインタビューさせてもらったことも、自分にとってとても大きかった。多くの人がそうだと思うのですが、『Black Box』を読むことは、伊藤さんの経験を通して自分の過去を見つめ直すことでもあり、読んだ前後で確実に何かが変わる、そういう読書体験でした。

 それで依頼の手紙を書き、当時の清宮美稚子編集長に読んでもらったら「ファンレターになってる。編集に携わる人間としてなにができるかを提案しないと」と言われ、本当にそのとおりでした。インタビューの後もウェブ連載をお願いしたり、やりとりさせてもらうなかで次第に伊藤さんの言葉を編んだ書籍をつくれないかと思うようになりました。民事訴訟が継続し、SNS上での誹謗中傷など新たな痛みが加わるなかで、メディアの片隅にいる者として、あるいは一人の人間として、伊藤さんにどんな言葉をかけられるのか、ためらいをもったこともあります。ただ、一歩立ちどまって考えると、次々と書いてもらいたいことが湧いてきてメールしました。出版に向け動き出すと、断続的に色とりどりのエッセイが届いて、なかには海底のマグマから噴き出たような言葉もあり、驚かされました。

――「世界」編集長になる前は、単行本の編集部へ移っていたんですよね。

堀:雑誌や新書・文庫などペーパーバックは決まったお弁当箱にどう詰めていくかという作業で、単行本はお弁当箱の形や素材も考える。自由度が高くて難しいけど、楽しかったです。入社以来、読書量が足りず知識もおぼつかない状態でやってきて、自分なりの軸がまったくなかったとも思いませんが、外部的な評価に依存するというか、著者との関係性や社内の傾向、反応に大事な部分を委ねてしまっていたのではないかとも思います。でも、単行本をつくるなかで、もっとテキストの力を信じて、自分がなにを面白いと感じるかを素直に企画化していいんだと、気づかされていった。

 たとえば、エスノグラファーの榎本空さんの初の単著『それで君の声はどこにあるんだ?』は、自伝的な要素を含む書き下ろしでした。著者は若い方ですし、かっちりとした学術書をまず書いていただいたあと、そうしたパーソナルな側面を含む本へ、との流れもあり得たと思います。実際、そういう方向に気持ちが揺らいだときもあったのですが、榎本さんのご関心はそこにはなかったし、外側から黒人神学を「解説」するのではなく、榎本さんが黒人神学とどう出会ったか、師匠の教えを自らのものとしてどう引き受けたか、それが知りたかった。「誰かの目線」にとらわれず、自分が読みたいものを企画化していけばいいと、自分なりの軸を意識するようになりました。

――かつては世間的に「岩波文化人」という表現もありましたし、版元として独特な見られ方もしてきたわけですが、それは意識しませんでしたか。

堀:そういう時代もあった、と入社時から相対化してみていたと思います。歴史の一コマという感じで、反発するほどの意識ももっていなかった。ただ、経済学者の宇沢弘文さんがスポーツウェアで夜間受付を通ってこられたり――たぶん自転車での移動のためだったと思いますが――、地下会議室で憲法学者の奥平康弘さんたちの集まりと若い世代の研究者の勉強会が重なって合流したり、伊東光晴さんが如水会館での用事のついでに編集部に突然いらしたり、そういう岩波書店や雑誌の背骨をつくってこられた方々と接することができたのはありがたかったです。

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