平野啓一郎「偶然性」と「運」に着目した理由 10年ぶりの短篇集『富士山』で描いたこと

平野啓一郎インタビュー

 『マチネの終わりに』『ある男』『本心』などの話題作を次々と送り出す作家・平野啓一郎氏が、3年ぶりの新作小説『富士山』(新潮社)を刊行した。コロナ禍、重病リスク、無差別殺傷などのテーマを扱った5篇の短篇が収録されているが、どの作品も私たちに「あり得たかもしれない」世界の物語が描かれている。なぜ、そうした「偶然性」や「運」に着目して執筆したのか。平野氏にインタビューをした。(篠原諄也)

平野啓一郎

ーー今回、10年ぶりの短編集とのことですが、刊行した今の思いについて教えてください。

平野:コロナの期間中に書いていたので、陰に陽にその影響を受けた短編集だと思います。当時はパラレルワールドのような感じでした。街から人がいなくなったり、世界中の飛行機が止まったりしていました。その非現実感のようなものが、着想のひとつになっている気がします。

 また、人間の距離感についても考えさせられました。そうした中で、人間の人生というのは、偶然的なことによって非常に左右されていると思いました。ありていに言えば、運というものが結構あるんだということを書きたかったんです。

ーー現代社会における「偶然性」をどのように捉えていますか。

平野:ひとつはテクノロジーが進歩する中で、社会は偶然性を排除したがっているんですね。コスパやタイパを考えると、偶然任せでは非常に効率が悪い。ウェブ広告は履歴に基づいてカスタマイズされているし、テレビCMや街中に貼ってある広告を人が偶然目にすることだけを期待していた時代とは変わっています。

 恋愛について考えても、昔は人が人を好きになる時は、たまたま物理的に近くにいるからだというのがほとんどだったと思うんですね。でもそれだけで結婚相手を探すと大変だからと、マッチングアプリが利用されている。職場など労働の現場だけでなく、日常生活全体にわたって、偶然性が排除されようとしているのを感じます。

 しかし、人間の人生は運に左右されているようなところがかなりある。特に情報量が増えていく中で、むしろ偶然に左右されることは増えているんじゃないか。そういうことを改めて意識化することによって、人の人生はなぜ今、このような姿なのかを書きたいと思いました。「本人が努力したから・していないから」という自己責任論的な単純な話ではない。生育環境などの環境要因にも還元しきれない、雑多な要素で成り立っているということを書きたかったんですね。

ーー自己責任論というものについて、どのように考えていますか。

平野:僕自身の世代がいわゆるロスジェネですから。たまたま景気が悪い時に就職の時期が差しかかっていて、それが20・30年間もの間、ずっと尾を引いている。いまだに僕の世代は経済的に苦境にあります。そのまま高齢者になって社会保障制度を圧迫すると言われてますが。

 それは本当に運としか言いようがないことだと思います。でもゼロ年代に入ってからの新自由主義的な風潮の中で、自己責任とされてしまったことに対して、非常に憤りがあるんです。それが社会を構造的に見ていこうとする、ひとつの動機にもなっています。

ーー短編「息吹」では主人公・息吹が大腸内視鏡検査を受けて、その時に初期の大腸ガン細胞を摘出します。自分が病気になるか・ならないかは、その偶然性を痛感する曲面だと思いました。本作執筆の背景には、平野さんご自身が検査を受けたこともあるそうですね。

平野啓一郎
平野:本当にたまたま、知人から大腸内視鏡検査を受けてポリープを取ったという話を聞いたんです。滅多に会わない人なんですけど。それで僕も何となく検査に行ってみたら、ポリープが結構大きくて切除をしたんですよ。医者によると、ポリープは放っておいてもガンにならないものと、ガンになるもののとの2種類があるそうで、僕のポリープは放っておいたらガンになる可能性が高かったと言われて。

 もし知人からあの日に話を聞いていなかったら、あと数年は大腸内視鏡検査はしなかったと思うんです。そうすると、50代の初め頃に進行したガンが見つかっていたかもしれない。もしそうなったら、出版社の人にも説明して回らないといけないなとか、知り合いの編集者が「平野さん、ガンになったらしくて」とひそひそ話をする場面を想像したりすると、ものすごく嫌な気持ちになったんです。結局、検査をしたおかげでならなかったんですけど、それは本当にたまたまその日にその人から話を聞いたからだった。そんな偶然というものに、非常に実存的に嫌な気持ちが湧いてきました。サルトルの小説にあるような存在の無意味さのようなものを感じて。そのことを書きたいなと思いました。

ーー作中では、主人公・息吹があとから検査時の記憶が不明瞭となって「自分は本当はガンなのではないか」という意識に苛まれます。記憶というものについて、どのように考えていますか。

平野:記憶は僕の小説の大きなテーマです。記憶の不安定さが過去を不安定にしている大きな理由だと思うんです。人間はその不安定さを補うために、メディアという記録媒体を発展させてきました。

 自分が経験したけれど記録するまでではなかった場合、それを本当に経験したかどうかは、自分の実感しか頼りになりません。でもそこが混乱してくると、確証ができないということを書きたかったんですよね。例えば、知人と話していて「前一緒にあそこに行ったよね」と言われて、でもどう考えても僕は行っていないようなことがあります。そういう記憶の混乱が、病気の検査について生じた時に、本人は動揺してしまうということを書きました。

 『マチネの終わりに』でも過去は変わるということを書きました。過去は変えられるし、変わってしまうものだと。それが政治的には歴史修正主義を招いているところもある。まともな歴史学でも、僕が認識していたのとは全然違う新説がどんどん出たりしています。更新されつづける過去の上に、現在が乗っかっているというのはずっと関心があるテーマですね。

ーー表題作の「富士山」では、人との出会いや凶悪事件にまつわる偶然性が描かれていました。主人公・加奈は、地下鉄無差別殺傷事件の報道を見ていて、かつて婚活専用のマッチングアプリで知り合った男性・津山の名前を目にします。ラストシーンで加奈が富士山を眺めるシーンが印象的ですが、なぜ「富士山」をテーマにしたのでしょうか。

平野:僕はもともと富士山に全然興味がなかったんですよ。ナショナリズムの象徴ですし、日本、フジヤマ、芸者みたいなイメージがありますよね。でも山中湖の三島由紀夫文学館で講演をする機会があって、その時に山中湖から間近にある富士山をまじまじと見ていたら、ものすごくワイルドだったんです。全然人の手が入っていないので、何千・何万年前からずっとこういう姿だったんだろうという感じがして。日本という国の歴史よりも、当然、遥かに古い。ナショナリズムの象徴のはずなのに、非常に無国籍的な感じがしました。その逆説で、初めて、富士山は面白いなと思うようになりました。

 ちょうどそう思っていた頃に、東海道新幹線のチケットを買おうとすると、いつもE席側が埋まっていることに気がつきました。最初は窓際だからかなと思ったんですが、同じ窓際のA席よりも先に埋まるんですよね。友達にそれを話したら、こともなげに「富士山が見えるからでしょう」と言うんです。いまだに本当にそうなのかわからないんですけど、東海道線の社内アナウンスでも「右手に富士山が見えます」などと言います。やはり富士山が見えるからE席に座るという人がいるようなんです。

 よく考えてみると、東海道から富士山を見るというのは、「富嶽三十六景」や「東海道五十三次」などのように、昔から日本人がやってきたことでした。それが今、新幹線になっていると考えたら、E席から買っていくのは割と文化的に厚みのあることだなと思ったんです。「富嶽三十六景」などはいろいろな角度から、色々な前景とあわせて富士山を見ているんですが、では富士山の正面はどこになるのかと考えた時に、それが定められないんですね。だからこそ、富士山を多視点で描いているということも面白いと思いました。それは人間の多面性とも重ねられるんじゃないかと。

平野啓一郎

ーーそれは平野さんの提唱する「分人主義」にも通じるところですね。

平野:小説の具体的な設定に近いんですが、妻の実家が愛知県にあって、新幹線はこだまじゃないと駅に止まらないんです。あとコロナ中であまり遠出ができなかったので、近場の家族旅行によく行ったんですよ。それでこだまによく乗るようになりました。そうすると、小田原駅の通過待ちで停車するんです。その時に線路を挟んで反対の上りの側に止まっている車両があって、ぱっと見たら向こうの人が見えるんですよ。

 ちょうど同じ頃、DVの被害に遭っている人などが周りに助けを求めるサインが、ネットで紹介されているのを見ました。カナダの人権団体が考案したサインで、アメリカでは実際に誘拐されそうになった女の子が救われたそうです。ただマイナーなサインなので、自分がそれを見た時に咄嗟に何かできるだろうかと考えていたんです。それでもし新幹線の反対側の車両からサインを送られた時に、新幹線を降りてそこまで行くだろうかと考えて。そういうことがいろいろ重なって、物語になっていきました。

ーーサインを知っていた加奈は咄嗟に新幹線を降りますが、津山はあまりに急なことで、動揺して動けません。

平野:何かがあった時に、自分がどれくらい関与するかというのは、自分の人間性を問われているような感じがします。ただ僕は、ひとりの人の評価は、どの一定期間を見るかによって、変化すると思うんです。ある時にこうしたからいい人・悪い人だと、瞬間的に本質があらわれるという考え方に、どちらかというと抵抗しています。

 とはいえ、マッチングアプリで知り合って早く結婚したいと思っているとしたら、日常生活をともにして恋愛にいたったわけではないので、「本当のところ、この人はどんな人なんだろう」と思いますよね。この後30、40年もの間、結婚生活を送ってもいい人だという確証を常に求めている。そうすると何かのきっかけで、その人の人間性を見たいと思うし、見たと感じるということが起こる。それでこういう物語になっていきました。

ーー平野さんの最近のご関心と今後のご展望を教えてください。

平野:世界は混迷の渦中にあって、未来はあまりにも混沌としています。僕はその中でものを考えることがスリリングで、自分がやらないといけないことだと感じています。それはなかなか理解されないこともありますが、読者がそれを求めていることを感じます。このあと、中編を書く予定があり、その後、次の長編のテーマが見えてくると思います。とにかく未来が予測不可能になっているということ自体に、小説家的なインスピレーションを刺激されていますね。

平野啓一郎

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