夢枕獏『陰陽師』シリーズは伝奇小説であり探偵小説だ 映画でも注目したい安倍晴明&源博雅の“対の関係”

『陰陽師』安倍晴明&源博雅の“対の関係”

 若き日の安倍晴明の活躍を描いた映画『陰陽師0』(監督・佐藤嗣麻子/主演・山﨑賢人)が公開され、あらためていま「陰陽師」という存在に注目が集まっている。

 原作は夢枕獏の大ヒットシリーズ、『陰陽師』(注・映画はオリジナルストーリー)。1986年に第1作目の短編(「玄象といふ琵琶鬼のために盗らるること」)が発表されたこのすこぶる面白い伝奇小説の連作が、メディアの世界における「陰陽師ブーム」の火付け役といわれている。

 むろん、「陰陽師の存在を広く世に知らしめた先行作」という意味では、1985年に連載が始まった荒俣宏のベストセラー小説『帝都物語』も忘れてはならないだろう。しかし、実際にいま多くの人々が頭に思い描いているような「陰陽師=安倍晴明」のイメージ――すなわち、年齢不詳かつ中性的な美形、権力にこびることなく、自らの正しいと思ったことのみを行うクールなホワイト・マジシャン(白魔術師)、というものは、夢枕獏が作ったといっても過言ではあるまい。

 なお、陰陽師とは、古代日本において陰陽五行説に基づき吉凶を占った官人たちのことであり(注・朝廷非公認の陰陽師たちもいた)、件の安倍晴明は、平安時代に実在した鬼才中の鬼才である。

読めば読むほどクセになる、主役ふたりの会話

 さて、夢枕獏の『陰陽師』シリーズだが、ジャンルとしてはもちろん平安時代を舞台にした伝奇小説ないし怪奇小説ということになるのだろうが、物語の基本的な構造はどちらかといえば探偵小説のそれに近い。

 つまり、毎回冒頭のパートでは、「探偵」役である安倍晴明とその「相棒」・源博雅(醍醐天皇の孫で雅楽の名手)がだらだらと酒を吞んでいて、そこに、「依頼人」が訪れる(あるいは、すでに晴明ないし博雅は誰かの「依頼」を受けており、後日、ともに「現場」に向かうことになる)。そして、晴明が陰陽道の秘術を使って(時に博雅の力を借りて)、鬼や呪いにまつわる「事件」を解決する、というのが、このシリーズの基底構造である(むろん例外もある)。

 マンネリといえばマンネリかもしれないが、これは偉大なるマンネリだ。とりわけ、晴明と博雅が庭の樹々を眺めながら盃を酌み交わす毎回の序盤のシーンは、何度繰り返されても飽きることがないし、読んでいて心地いい。そこでは、日本の四季の美しさだけでなく、「呪」(しゅ)というキーワードを通して、「人生」や「世界」の“真実”が語られている。

 たとえば、比較的初期の頃の短編である「瓜仙人」(『陰陽師 付喪神ノ巻』所収)の冒頭部分で、ふたりはこんな会話を交わしている。

 わずかな時間で、青虫を蛹に、そして、蝶へと変えてみせた晴明の「呪」に驚いた博雅がこういう。「晴明よ、今、おれが見たのは、夢なのか、それとも現(うつつ)なのか?」

 晴明は答える。「夢とも現とも、どちらとも言えるものさ」

(中略)

 「それは、つまり、実際には起こってないということか」(博雅)

 「博雅よ、あることが起こったのか、起こらなかったのか、それを決めるのは、おれがどういう説明をしようと、それはおまえの心なのだよ」(晴明)

 「あるもの」は本当に「ある」のか。また、「ないもの」が「ある」ことはないのか。あるいは、いま、自分の脳が認識している事物は本当に実在しているのか。あらためていうまでもなく、この種の問題は、名だたる哲学者や思想家たちが(場合によっては物理学者が)いまなお考え続けている問題でもある。

 さらに、「鬼小町」(『陰陽師 飛天ノ巻』所収)では、晴明は博雅にこんなことをいう。

 「博雅よ、おぬしには妙な才能がある。おまえは、もしかしたら、おれなど及びもつかぬくらいのものを持って、この世に生まれてきたのかもしれぬ。(中略)博雅という才能、あるいは呪は、この晴明という呪にとっては、対のようになっているものではないか。博雅という呪がなければ、晴明という呪などは、この世にないも同然かもしれぬぞ」

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