おおひなたごう「はやく『レコード大好き小学生カケル』を描き上げたい」漫画家人生を振り返る展覧会開催
■おおひなたごうの歩みを振り返る展示会
ギャグ漫画界の鬼才として知られる漫画家・おおひなたごう。破天荒かつシュールな『おやつ』『目玉焼きの黄身 いつつぶす?』などの作品で知られ、豪華ゲストと「ギャグ漫画家大喜利バトル」を開催したと思ったら、2013年からは京都精華大学の教授も務める教育者としての一面をもつなど、多岐にわたる活躍で知られている。
そんなおおひなたの漫画家人生を回顧する展覧会「What an OHINATAful World~この素晴らしきおおひなたごうの世界~」が、「京都国際マンガミュージアム」で開催されている。デビュー前に描かれた漫画の展示から、なんとWEBTOONを思わせる縦読み漫画の“絵巻物”まで登場するなど、斬新な内容が話題だ。1991年にデビューし、漫画家生活33周年を迎えたおおひなたに展示の見どころを聞いた。
■1990年代は、不条理ギャグ漫画全盛期
――おおひなたごう先生の個展がはじまりました。見どころを教えてください。
おおひなた:会場は時系列順に「黎明期」「量産期」「迷走期」「激変期」「成熟期」の5つの章に分かれ、僕の作風の変遷を見ることができます。こんなに作風が変わっているんだ、と実感していただけると思います。
――作風が多彩なことで知られるおおひなた先生は、1991年にギャグ漫画家としてデビューしました。
おおひなた:90年代は、不条理漫画や4コマ漫画が盛り上がっていたので、ギャグ漫画でデビューしやすかったんですよ。バブル景気の余韻もあって次々に新しい雑誌が創刊されていたので、たくさん仕事をいただいていた時期です。
――まさに「量産期」にあたりますね。
おおひなた:そうですね。月に最大11本連載していたこともあります(笑)。週刊、隔週、月刊の連載を並行して描き、月に20回締切があるという状態でした。
■雑誌の衰退で新たな作風を模索
――思えば、90年代は漫画雑誌に必ずギャグ漫画が掲載されていた時代でした。
おおひなた:巻末には必ずと言っていいほど載っていましたからね。ところが、2000年代になると徐々に出版バブルが弾けていき、雑誌が休刊になったり、ギャグ漫画が打ち切られるようになっていきます。さらに、売れ筋の作品じゃないと単行本が出なくなりました。僕も例外ではなく、長期の連載ができなくなり、打ち切りも相次ぎました。どんどん仕事が減っていったので、作風を変えることを余儀なくされました。
――2002年以降を「迷走期」と呼んでいるのはそのためでしょうか。
おおひなた:僕の中では厄年が続いた時期ですね。企画も通らず、連載が「テレビブロス」の1本だけになったこともありましたから。
――とはいえ、迷走と言いながらも、試行錯誤が繰り返されているように思います。
おおひなた:今回は展示ができなかったのですが、『まほう少女トメ』という原作付きのホラー漫画の合作は印象深い仕事でしたね。ギャグ漫画家は原作に回ることが多いですが、僕の場合は作画を担当しました。絵柄もまるごと変えたかったし、ネーム原作だったので他人のコマ割りで描くことによって、新しい表現も身につけられたように思います。また、90年代の「おやつ」は毎回3~4ページでしたが、この頃からページ数が多い作品が増えています。
■『目玉焼き』のヒットが自信に
――そして、迷走期を脱し、2012年におおひなた先生の代名詞ともいえる『目玉焼きの黄身 いつつぶす?』が誕生するわけですが、その前に京都精華大学の教員にもなっていますね。
おおひなた:京都精華大学にギャグマンガコースが新設される際に、教員のオファーがきました。講師の仕事をしながら新作を描き続け、『目玉焼きの黄身 いつつぶす?』がそれなりに話題になってくれたので嬉しかったですね。アニメやドラマにもなり、なんとか厄年を脱出できました。
――『目玉焼き』のヒットで周りからの目も変わりましたか。
おおひなた:僕のファンじゃない人も読んでくれている、という実感が得られたんですよ。従来のファンからも、読後に「これ、おおひなたごうだったのか!」と、驚かれたケースも多かったようですし。ネットでエゴサ―チをしていると「こんな奴と飯を食いたくない!」とか(笑)、作品の内容に踏み込んだ感想も多くて、純粋に作品の内容を楽しんで読んでもらえていると思いました。