杉江松恋の新鋭作家ハンティング 胸に突き刺さる現実の物語ーー麻布競馬場『令和元年の人生ゲーム』

麻布競馬場『令和元年の人生ゲーム』評

 小説に書かれた台詞が胸に突き刺さる。

 投擲された槍みたいに、ずしんと刺さるというわけではないのだ。ぐさぐさ、ちくちくと刺さってくる。いっぺんではその言葉を咀嚼しきれないのでとりあえず前に抱えて持っていたら、いつの間にかそれが胸に刺さって取れなくなってしまった。そんな感じ。

 麻布競馬場『令和元年の人生ゲーム』(文藝春秋)を読み終えたあと、刺さってしまった台詞たちを、ページを繰りながらもう一度眺めていった。なぜ刺さったのかを理解した。

 そこにあったのは、どこにも行くことができず、もともと定められた進路を変えることが許されず、でもなんとかしようとして抗う者の姿だった。抗うのだけど、そうやって動くこと自体が不安の種になる。動けばその場に張っていたはずの音がゆるむ。並木でも、周りと樹影が違ってしまった一本は生を真っ当できなくなることがある。その木だけが枯れてしまうかもしれない。植え替えられてしまうかもしれない。そういう不安が心に影を作る。影を掻き消そうとして新しい光を求める。光を追いかけて、いつまでもくるくるくるくる、顏を動かすことを止められなくなる。そこから動けないのにいつまでも忙しい。

 4話で構成された小説だ。各話に「平成28年」「平成31年」「令和4年」「令和5年」と題がつけられているのは、それぞれの物語で時計の針が指していた年を示している。第3話「令和4年」はシェアハウスの物語だ。このシェアハウスは学生寮になっていて、さまざまな大学から入居者がやってくる。交流し、お互いを高め合うことを目的として作られた住処なのである。チューター、つまり社会人の指導係が常駐している。

 その住人の一人である、慶應文學部1年生の脇谷くんは、ある出来事のあとでこんなことを言う。ああ、言い忘れたが本書では大学や地名などはほぼ実在のものが出てくる。実世界とつながった場所の物語だと読者は認識するだろう。

「僕は一体、これからどこへ行けばいいんでしょうねぇ」と言う。それに対してチューターの沼田は答える。「どこへも行かなくてもいいんじゃないですか。脇谷くんは価値ある人間であることに固執しすぎです。やるべきことが見つかるか、それが向こうからやってくるまで、当面はのんびり過ごしましょうよ」と。脇谷くんは納得できない。

「でも、そのままやるべきことも見つからずに、何もやらないまま死んじゃうかもしれないって恐怖に、沼田さんは耐えられるんですか?」

 こうやって書くと、なんの変哲もない台詞だと思う。おそらく同じような言葉が、今日も世界のどこかで発せられただろう。だから読んでいるときはすっと通り過ぎていた。でもいつの間にか胸に刺さっている。気が付けば考えている。耐えられるだろうか。自分が二十代のときに同じことを言われたらどう思っただろうか。

 そういうことである。脇谷くんのような、「僕は一体、これからどこへ行けばいいんでしょうねぇ」と自問自答してしまう若者がたくさん本書には出てくる。第1話「平成28年」の語り手は、徳島の公立高校を卒業して慶應義塾大学商学部に入学、ビジコン運営サークル「イグナイト」に入った〈僕〉だ。ビジコンとは企業から協賛金を集め、大学生が持ち寄ったビジネスプランを競わせるというものだという。その代表を務めている吉原は高校時代、起業を試みたことがあるが長続きせずに挫折、必ずもう一度成功してやるという野望を持って大学に入り、サークルに辿り着いた人物だという。

  第2話「平成31年」は、早稲田大学政治経済学部を卒業して大手町にある人材系最大手企業パーソンズエージェントに新卒入社した〈私〉の視点から語られる。すべての章は語り手の自己紹介から始まる。何年にどこどこを卒業、入学して何をしているというように。名前よりも先に学歴や職歴、サークル歴などが読者に告げられる。あたかも、それこそが戸籍に記された名前以上に自分が何者かを示す標識であるとでもいうように。

 前出の第3話「令和4年」は「社会人7年目を迎えた僕」が、池尻大橋にある大学生向けシェアハウスにチューターとして入居したことを宣言してから始まる。初めて学歴についての言及がなくなる。その次の第4話「令和5年」の出だしはこうだ。「2023年4月、僕は「杉乃湯の未来を考える会」にジョインした」。ジョインって。学歴がないだけではなく、大学サークル、企業、シェアハウスときて、ここでは語り手が帰属することになる集団は公的な性格が非常に薄い「考える会」である。作者はおそらく意図的にグラデーションをつけて、この変化を描いている。本作においては、配置される小道具や背景などは、すべて一定の意図でデザインされているのである。そのときどきがどのような時代であるかを如実に表すものが周到に選び抜かれている。

 周りにあるものは変わっていく。バブル期の大学生が肩幅のやたらと広いDCブランドを着て札びらを切っていたのは今から見れば異常な光景だが、当時はそれがふさわしい小道具だったのだ。だがあるところでこの社会は可塑性を失い、未来は自分で選べるという幻想が信じられなくなった。そこからは周囲にある資源といかに向き合うかの判断が死活問題となり、それを奪う競争に参加するか、早々と放棄を宣言して美しい生き方を標榜するか、態度を表明することが重要であると考えられるようになった。自由意志というよりは、やむなき生存戦略として。先に登場した脇谷くんは、そうした選択を迫られる恐怖に耐えられなくなった、無数の若者の、ありふれた一人だ。

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