吉本興業・大﨑洋会長が振り返る、ダウンタウンと歩んだ道「僕がここまでできたのは、ふたりの才能を信じることができたから」
吉本興業の大﨑洋会長といえば、無名時代のダウンタウンを発掘してマネージャーを務め、関西ローカルだった吉本のお笑いと芸人が東京に進出する立役者になるなど、日本の芸能文化に大きな足跡を残した人物でもある。そんな大﨑会長が今年3月10日、自らの半生と思想を綴った『居場所。』(サンマーク出版・刊)を出版した。激動の人生と今後のお笑いの在り方、そして生き辛さに悩む人々へのメッセージまで、多岐に渡るテーマを存分に語ってもらった。(山内貴範)
入社してすぐ「辞めたい」と思い始める
――大﨑会長は関西大学を卒業後、1978年に吉本興業に入社しました。大﨑:僕が吉本興業に入った時は、いわゆる“興業”の匂いがそこらじゅうからぷんぷんしていました。劇場も古い建物で、トイレのすえた匂いと、楽屋の入口のどんぶりに入っているきつねうどんのスープ……そういうものが入り混じった匂いが漂っていました。僕は大学生の頃はぼ~っと過ごしていたのですが、いきなりお笑いの業界に飛び込んだわけです。周りにテレビで見たことがある人がいっぱいいるのはいいけれど、昼でも夜でも「おはようございます!」って挨拶が飛び交っていて、違和感を覚えながら見ていました(笑)。
――入社のきっかけは何だったのでしょうか。
大﨑:入社前に電話で人事の人に、「お休みはどのくらいあるんですか?」と聞いたら、「奇数月は7日間、偶数月は8日間休みがあります」と言われたんです。こんなええ職場ないわ~!……と思って入ったら、どうやら忙しくて休みもない感じで。1週間まとめて休めると思っていたのにこれは騙されたなと(笑)。入社して程なくして、休みがない人生なんてゴメンや、絶対に辞めようと思い始めました。
――いきなりですか! でも、このとき辞めなかったから、今の大﨑会長があるわけですよね。踏みとどまれたのはなぜでしょうか。
大﨑:入社したとき、アホの洋が会社勤めができるようになったと、じいちゃんもばあちゃんも喜んでくれたんです。それなのに10日で辞めるとか言ったら悲しむだろうなと思って、言い出せず……気づいたら40年も経っていました。もし辞めていたら別の人生があったわけで、いつかその分の人生を取り返さないといけないと思っています(笑)。
――入社したころの吉本や、日本のお笑いの世界はどんな感じだったのでしょうか。
大﨑:僕が入社したのは、「THE MANZAI」(編集部注:1980年からフジテレビで放送された漫才番組)で漫才ブームが始まる前なんですよ。80年代になると、ツービート、紳助・竜介、B&Bの島田洋七・洋八など新しい才能が出てきて、彼らは漫才作家が書いた台本ではなく、自分たちの言葉で漫才を作るという新しい見せ方をしていました。でも80年代の終わりごろ、僕は漫才なんて新しい笑いは出尽くして、将来は消えてなくなると思っていたし、少なくとも明石家さんまくん、ビートたけしさん、島田紳助くんのような人たちは今後出ないやろなと考えていました。
ダウンタウンと運命的な出会いを果たす
――その後、大﨑会長はダウンタウンの松本人志さん、浜田雅功さんのふたりと運命的な出会いを果たします。大﨑:東京に赴任していたのですが大阪に呼び戻されてしまい、傷心気分で道に転がった石を蹴りながら歩いていたら、向こうの暗がりから目つきの悪いふたりが歩いてきた。それが松本くんと浜田くんとの最初の出会いですね。
――ふたりの第一印象はいかがでしたか。
大﨑:ずいぶん暗くてガラの悪そうなコンビだなと思いました(笑)。僕は暇やったからボーッとして、ふたりの横で台本を整理していたんです。そのときにふたりが練習していたのが「ローリングサンダーマン」や「森の妖精」などのコントでした。それはもう、驚きでしたね。こんな凄い奴らがでてくるもんなんだなと。日本のバラエティを変えるのはこんな奴らなんだろうなと思いました。
――ダウンタウンの漫才は現代の感覚で見ても斬新ですが、当時はどんな点が画期的だったのでしょうか。
大﨑:漫才って、ネタとフリが効いて、最後にオチを聞いた瞬間に石つぶてが飛んできて笑うものなんです。ところが、ふたりの漫才はどこから石つぶて、パチンコ、槍が飛んでくるのかわからない。その想像のつかない芸風が驚きで、世界中探してもこんなふたりはいてへんやなと確信したんです。このふたりとならひょっとすると、世界にいけるんちゃうかなあと思いました。
――衝撃を受けた大﨑会長は、ふたりに対しどんな行動を起こしたのでしょうか。
大﨑:ふたりを連れて吉本を辞めたら儲かるかもなあと思ったけれど、しばらくはボーッとしていたので、何もしませんでした(笑)。でも、あるときふたりと汚い安っすい喫茶店に行ってまず~いコーヒーを飲んでいた時、松本くんから「大﨑さん、僕らのこと、どう思いはりますか?」と聞かれたんですよ。
――ストレートな質問ですね。大﨑会長はどう答えましたか。
大﨑:君たちは面白いし、ふたりやったら世界に行ける。お笑いの世界を変えられる。そういうふたりやと俺は思うねん、と言ったら、松本くんから「なんで俺ら、売れへんのですか!!」と返された。僕はテレビ局の人たちもみんなアホやなあなどと言いながら、コーヒーを啜って、じゃあマネージャーを引き受けようという流れになったんです。
――といっても、まだダウンタウンは無名で、仕事もそんなに多くなかったわけですよね。
大﨑:スケジュールが真っ白なままではあかんので、ネタ作り、衣装を買いに行く、市場調査……といった具合に、強引にスケジュールを埋めていました。ボーッとしていた僕がここまでできたのは、ふたりの才能を信じることができたからだと思います。
お笑い界は現在と異なっていた
――吉本興業のお笑いは関西では圧倒的な知名度があったと思いますが、90年代前半はまだまだ東京では知る人も少なく、芸人さんの冠番組もほとんどなかったそうですね。大﨑:大阪の笑いは箱根の山を越えられない、みたいな不文律がありました。関西ローカルでは「パンチDEデート」などの番組がありましたが、関西の芸人さんで東京の放送局の仕事をしている人は、やすしきよしさん(横山やすし・西川きよし)が「歌まね振りまねスターに挑戦!!」という日本テレビの番組に出ていたくらいかな。東京で関西の笑いが放送されているイメージはほとんどなかったです。
――吉本の芸人さんが数々の番組で司会者を務める今では、考えられませんね。
大﨑:あの頃は吉本の芸人の活躍の場は、年に2回、年末の「東西爆笑大会」とか年明けの「新春東西寄席」に行く程度でしたから。
――そもそも、お笑いが主体の番組も決して多くなかったようですね。
大﨑:当時の東京の芸能事務所の90%は、音楽ビジネスが基本だったからでしょうね。
――90年代半ばになると吉本のお笑いが東京のテレビを席巻していきます。芸人さんが報道番組やバラエティ番組で司会をやったりと、活動の幅も広がりました。
大﨑:でも、音楽系の事務所からは、漫才ブームのせいで歌番組をつぶされたので、嫌われていたと思いますよ。僕はそんなことはつゆ知らず、一生懸命……手を抜きながら仕事をしていましたが(笑)。