漫画短編集『音盤紀行』が描くレコードの魔法 過去と現在を紡ぐ“時空旅行”
※本稿には『音盤紀行』(毛塚了一郎/KADOKAWA)の内容について触れている箇所がございます。同書を未読の方はご注意ください。(筆者)
「僕の趣味は古いLPレコードのコレクション。守備範囲は主にジャズで、世界中どこに行っても暇があれば中古レコード屋を探す」(村上春樹)
「レコードを愛することと、音楽を愛することは似ているようだがまったく違う。レコードが素晴らしいのは、そこに封じ込められた音楽や会話、あるいは音のすべては、過去に奏でられ、発せられたものだ、ということだ」(小西康陽)
「どうしてこれほどにLPを買うのか、その理由はただひとつ、買わないことにはなにも始まらないからだ。まだ自分の知らない音楽が、どこにどれだけ眠っているのか、遭遇しないとわからない」(片岡義男)
これらは、日本有数のレコード・コレクターとしても知られる作家およびミュージシャンの言葉だが(引用元については文末の【参考文献】参照)、なぜ、彼らはそこまで「レコード」という存在にこだわるのか。それをもっともわかりやすい言葉で説明しているのが、片岡義男の次の文章だろう。
LPは魔法だ。過去のある時あるところで流れた時間が、音楽にかたちを変えて、LPの盤面の音溝に刻み込んである。その音溝から音楽を電気的に再生させると、過去の時間が現在の時間とひとつになって、現在のなかを経過していく。何度繰り返しても、おなじことが起きる。これを魔法と呼ばないなら、他のいったいなにが魔法なのか。
ーー『僕らのヒットパレード』片岡義男・小西康陽(国書刊行会)より
そう、同書の「あとがき」で共著者の小西康陽もまた、同じようなことを、すなわち、「レコード・コレクターとは、つまり古いものを、過去を、もう取り戻すことの出来ないものを愛おしく思う人々のことだ」と書いているのだが、たしかに、あの黒い円盤をターンテーブルで回転させてそれに針を落とすだけで、何十年も前の異国で“記録”された音と時間が、現代の日本でも(何度でも繰り返し)甦ってくる。なるほどこれは「魔法」というほかないだろう。
そんなことをふと思い出させてくれる、“レコード愛”に満ちた漫画の第1巻が、先ごろ発売された。毛塚了一郎の『音盤紀行』(KADOKAWA)である。
レコードをめぐる5つの物語
毛塚了一郎の『音盤紀行』(第1巻)は、異なる時代と国を舞台にした5つの物語が収録された連作集である。具体的に言えば、現代の日本と、70年代の東欧、フィリピン、北海、そして、近未来のアメリカが舞台となっており、いずれの物語でも、1枚の、あるいは複数のレコードが人と人をつないでいく様子が描かれている。
どの物語も個人的には面白く読んだが、とりわけ心に残ったのは、第3話「The Staggs Invasion」だろうか。主人公は、フィリピンの裏町(?)にあるレコード店で働く少女、サラ。レジの奥で「自作」のエレキギターをかき鳴らしていた彼女は、世界ツアー中に「逃亡」していた人気バンド「スタッグス」のメンバーたちと偶然出会う。
実はサラはスタッグスの隠れファンなのだが、「技術(テクニック)はそれなりだが、やっぱり音がチープすぎるな」などとメンバーのひとりに揶揄されたせいで激怒。なんだかんだで彼女と彼らは「音」で「勝負」することになるのだったが……。
なお、このサラが、「勝負」の前に本物のロッカーであるスタッグスのメンバーたちに言い放つセリフがなかなか小気味よい。「この国では楽器は心で弾くんだ/よそ者に舐められてたまるか」
対する「よそ者」(スタッグス)たちも本気で挑み(つまり、彼らは最初から彼女を舐めてなどいないのだ)、その(ビートルズの「ルーフトップ・コンサート」をどこか彷彿させるビルの屋上での)「勝負」は、やがて奇跡のようなレコード――海賊盤ではあるが――に形を変えるのだった(さらにはそれが、別の物語の登場人物たちにもつながっていくという憎い演出まである)。