ペリー来航から始まった「ニッポンの音楽批評」の行く末は? 栗原裕一郎×大谷能生が綴る、ドラマチックな批評の物語

『ニッポンの音楽批評』レビュー

 時は幕末、1853年。黒船が江戸湾に現れる。そこで日本人が目撃したのは、アメリカ大統領の親書を携え上陸したペリー提督。そして随員たちの移動中に鳴り響く、軍楽隊による行進曲の演奏だった。耳馴染みのない演奏の様子を書面で報告する武士たち。これが日本における、近代西欧音楽批評のはじまりとなる。

 近現代の日本で、音楽がどのように語られ記述されてきたのか。評論家の栗原裕一郎と批評家・音楽家の大谷能生が、150年分の歴史についてまとめ上げた一冊。それが本書『ニッポンの音楽批評150年100冊』だ。批評というと難しそうな内容を想像するかもしれないが、心配は無用。読んでみると大河ドラマの原作になりそうなぐらいドラマチックで、主人公となる音楽批評の「難しそう」とは別の顔が見えてくる。

 第1章「1876年〜1905年 「音楽」は国家事業なり〜幕末と明治の音楽批評」で批評は、西洋音楽の教育を推進していく上での根拠として注目される。

 ペリー来航時に日本人が聴いた音楽=洋楽は、人々の士気を高め集団をスムーズに動かすのに適しており、軍隊の近代化を進める上で必要不可欠なものだった。やがて江戸幕府は崩壊し明治政府が誕生。文部省は国民が子供の頃から洋楽に馴染むよう、西洋式の音楽授業を公教育に組み込もうと計画する。

 旗振り役を務めるのは、文部官僚の伊沢修二。1875年にアメリカへ派遣され音楽教育の教授法を学んだ伊沢は帰国後、洋楽の普及に尽力する。そこで伊沢が用いた「西洋と日本の音律に異なりはない」という見解=批評には、西洋式の音楽教育を実現するためであろう誤魔化しがあったらしい。実際には音律に違いはあり、当の伊沢本人は留学中にドレミを理解できず苦しんでいた。見兼ねた教師に習得免除を提案されたが、悔し泣きしながら断ったのだとか。

 著者は日本の音楽史を、わかりやすい英雄譚に脚色したりはしない。エピソードや言説を多角的に分析して話を進めていく。そこでエビデンスの一つとなるのが、各章の最後に置かれた「ブックガイド」に収録されている音楽関連本の数々だ。

 デジタル化され国立国会図書館のサイトで読める書籍についてはQRコードが付けられているので、サブスク感覚で気になったものをすぐに閲覧可能。例えば第1章だと、西洋の詩形を手本に日本の詩を一新しようと試みた外山正一、井上哲次郎、矢田部良吉(編)『新体詩抄 初編』(1882年)や伝統芸能の体系化に取り組んだ小中村清矩『歌舞音楽略史』(1888年)など、明治の音楽批評の役割をより深く知る手がかりにもなるはずだ。

 洋楽が人間を動かすための実用品から芸術作品へと位置づけの変わる一方、大衆の娯楽を担う洋楽として演歌が地位を確立していく第2章「1906年〜1935年 内面化と大衆化〜「クラシック」の受容と日本的ポップスの変容」。太平洋戦争中に敵国音楽であるとジャズが排斥されるも、戦後は進駐軍や音楽に飢えた日本人の娯楽となり空前のブームを巻き起こす第3章「1936年〜1965年 変わったこと、続いたもの〜戦前・戦中・戦後の音楽批評」。ビートルズの登場によってポピュラー音楽評論が生まれ、音楽評論家が職業として成り立つようになった第4章「1966年〜1995年 批評する主体の確立から解体へ〜サブカルチャーとしての音楽と批評」。

 時に音楽家が自分たちの音楽にアイデンティティを見出すのを助け、時に敵国音楽を糾弾するためのだしに使われ、時に未知の音楽を知るための手引きとなり、激動の時代を生き延びていく音楽批評。だが、著者2人の対談を収録した最終章となる第5章「1996年〜2025年 対談 アーカイヴィングと「再歴史化」への欲望」では、これまでにない窮地に陥っている。

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