田中純に聞く、デヴィッド・ボウイの思想と美学 なぜ彼の音楽は人々の心を動かし続ける?
デヴィッド・ボウイのグラム・ロック時代の初期代表作『The Rise and Fall of Ziggy Stardust and the Spiders from Mars』(1972年。略称『Ziggy Stardust』)は、あと5年で世界は滅びると歌う「Five Years」から始まっていた。そして、2016年1月10日にボウイが亡くなってから5年後、田中純氏の『デヴィッド・ボウイ 無(ナシング)を歌った男』が刊行された。文字は2段組、600ページを越す労作である。
「~はない」=「無はある」というパラドックスを歌い続けた人として彼をとらえ、変化、遅延、分身、わらべ歌、義兄との関係など多様なモチーフが作品ごとにどう表現されたかを追い、ボウイの美学や思想を精緻に読み解いた圧巻の「作家論」だ。表象文化論、近現代の思想史・文化史、ドイツ研究を専門とし、現在、東京大学大学院総合文化研究科教授である著者に、ボウイとの出会い、大著の「作家論」をまとめるに至った思いを聞いた。(3月10日取材/円堂都司昭)
デヴィッド・ボウイとの出会い
――本の序によると、12歳の時にラジオで「Starman」(『Ziggy Stardust』収録)を耳にしたのがデヴィッド・ボウイとの出会いだそうですが、最初に聴いたアルバムはどれですか。
田中:『Low』(1977年)です。当時読んでいた「ロッキング・オン」(1972年創刊の洋楽誌)がプッシュしていたボウイに興味を持ち、画期的といわれていた『Low』を聴いたんです。そこからグラム・ロック時代へさかのぼり、アルバム・ジャケットを1つ1つ見てどんどん変化する彼のイメージに接した。『Alladin Sane』(1973年)や『Diamond Dogs』(1974年)は、グロテスクさを含んだ美しさが強烈でした。ただ、入口が『Low』だったから、ビジュアルとしてはあの頃のダンディズムに一番影響を受けました。彼がかぶっていた帽子とか。
――世界がまだ冷戦時代で東西に分断されていたドイツのベルリンでボウイは『Low』、『”Heroes”』(1977年)を制作した後、2度目の来日公演を行い(1度目は1973年)、その模様はNHKで放送されましたが……。
田中:NHKホールで観ました。初めて行く外タレのコンサートでした。
――体験してるんですね、うらやましい! 『Low』はアナログ盤でいうと歌詞のある曲はA面に集められ、B面は詞のないボーカルが少し入るだけでほぼインストゥルメンタル。片面ずつかなり色あいが違いましたが、すぐになじめましたか。
田中:抵抗感はなかったですね。『Low』は重い作品と思われているかもしれませんが、ジャケットの印象はポップでしょう。A面の曲は聴きこむと詞に病的なところがあるんですが、演奏に参加したギターのカルロス・アロマーは、ボウイがこのアルバムで求めたのは、明るくてバカげた世界だともいっているわけで、非常にポップでおもちゃ箱みたい。ある種の重いテーマを扱っているのは歌詞や岩谷宏さんのライナーノーツでわかりましたが、それも含め多種多様さが刺激的でA面とB面の違いをことさら意識しませんでした。
――同じ頃、ボウイ以外ではどんな音楽を聴いていましたか。
田中:ビートルズなど王道系のあと、自分で選んで聴くようになったのは、スパークス、ロキシー・ミュージック、ジェネシス、キング・クリムゾンとか。プログレッシブ・ロック、グラム・ロックなどのある種退廃的なものを一番聴いていました。
岩谷宏のボウイ論から受けた刺激
――すでに名前が出ましたが、本のあとがき(「跋」)で岩谷宏氏の文章がボウイ作品に思想を見出すことに開眼させてくれたと書かれています。岩谷氏といえば「ロッキング・オン」を創刊した4人のメンバーの1人で社長の渋谷陽一氏、松村雄策氏、橘川幸夫氏とともに1970年代にはレギュラーで原稿を執筆していました。先に触れたNHKの日本公演放送では彼による訳詞が字幕で流れていましたが、創刊メンバーのなかで岩谷氏のインパクトが大きかったんですか。
田中:というか、岩谷さんだけです。僕は、渋谷さんの話は全然ついていけなくて共感できなかった。松村さんは愛すべき人だから面白く読みましたけど、橘川さんはそんなに……。
――岩谷氏のボウイ論はどんな点に興味を持ったんですか。
田中:『Low』のライナーで彼は、ボウイは一種の文化革命を行っていたと言おうとしていた。その感覚なんですよ。ロックを通じた文化革命が社会の変化にもつながるはずだという感覚を彼は持っていた。岩谷さんはすごく断定的に書くけど、断定的だからこそカリスマ性があって、そのへんがボウイのカリスマ性と重なってみえた。岩谷さんは京大仏文卒で卒論は詩人のアルチュール・ランボー。ランボーが20歳で詩を捨ててしまったように、批評と緊張関係を持っているところがあった。文学が、音楽が、ロック批評が、それでしかないことへの苛立ちが文体にもあらわれていた。そこが『Low』に通じる。ボウイは決してロックに安住しておらず、ロックから常に外部へ出ようとしていた。岩谷さんが一時期のボウイを推していたのは、そこが通じあっていたからだろうし、僕が魅かれた理由でもあります。
僕はもともとドイツの社会や文化に興味があって、『Low』を聴いたのは次作の『”Heroes”』が出る頃だった。その1977年にはヨーロッパでテロが吹き荒れ、ドイツもそうだった。ドイツ赤軍が財界の要人を誘拐し、自分たちの幹部を刑務所から出せと要求した。連帯していたパレスチナ・ゲリラがハイジャックして西ドイツ政府に圧力をかけましたが、特殊部隊に制圧され、刑務所の赤軍幹部たちは自殺と称する死を遂げた。殺されたと推測されますが、報復で誘拐されていた財界人は殺された。「ドイツの秋」と呼ばれたそのテロ事件を報道で知り、僕も関心があった。もともと革命に興味があったんです。高校のはじめくらいからマルクスなどを読み、なぜ日本で革命が起こらないのか、ずっと考えていた。1960年には60年安保闘争があり、1970年には70年安保闘争があった(日米安全保障条約への反対運動)。1960年代後半には学園紛争があったわけです。
――68年革命と呼ばれ、先進諸国で若者の反政府運動が起こった状況と、同時代のロックの盛り上がりは結びついていましたね。
田中:高校生の自分と同じ世代が10年前に起こしたことだけど、1978年なんてなにも起こりそうになかったわけです。過去の闘争への憧れと1980年の闘争がないことへの苛立ち、革命への衝動みたいなところでたまたま『Low』、岩谷さんのライナー、「ロッキング・オン」と出会ってしまった(笑)。ボウイが持っていたポテンシャルに岩谷さんが開眼させてくれたというのは、そういうことです。
文化と政治、芸術と政治を考えるうえで重要なボウイ
――その後、田中さんは研究者への道に入るわけですが、ロックは聴き続けていたんですか。
田中:大学に入るまでが一番聴いていました。パンクからニューウェイブへの動きが面白くて、セックス・ピストルズからパブリック・イメージ・リミテッドに至る流れや、ザ・ポップ・グループ、キャバレー・ヴォルテールとか。ただ、ロックを研究対象にしようとは思わなかった。自分がドイツ研究を選んだこととボウイはつながっているし、ボウイが憧れた1920~1930年代のドイツ、彼が一時期住んだベルリンを研究のフィールドにしたくてそうした。でも、当時はロック研究のモデルがなかった。昨年、ボブ・ディランの訳詩集(『The Lyrics 1961-1973』『The Lyrics 1974-2012』)を出した佐藤良明さんのような10歳くらい上の人たちはいましたけど、世代の違いを感じてモデルにはならなかった。ボウイやロックは自分の深層にあって基盤になっていますけど、研究するものではなく自分のフィールドで実践すべきものというか。そんなことをずっと考えてきた気がします。
僕はアビ・ヴァールブルクというドイツの文化史家やジルベール・クラヴェルという変わったマイナーポエトについて評伝を書きましたが(『アビ・ヴァールブルク 記憶の迷宮』、『冥府の建築家 ジルベール・クラヴェル伝』)、ちょっとおかしな人たちなんです。文化的な奇人=oddityへの関心は、今回の本に通じるかもしれません(※最初にヒットしたボウイの曲の題は「Space Oddity」(『David Bowie(Space Oddity)』1969年に収録)。そういう意味の関心は持続していますが、時代ごとの音楽シーンへの関心はニューウェイブから後は薄れてしまいました。
――時代論、政体論、結社論、表象論の4部構成で政治的暴力が美化される論理を考察した田中さんの『政治の美学 権力と表象』(2008年)の第3章「自殺するロックンロール」は、デビューから『Low』までを主にとりあげたボウイ論でした。1996年にはその元となる原稿を発表していたそうですが、ボウイに関する文章を公に書いたのはそれが初めてですか。
田中:1990年くらいから友だちと作っていた同人誌や出版社のPR誌に短いものは書いていましたが、論文といえるものは1996年に大学の紀要に書いたものが初めてでした。『Let’s Dance』が大ヒットして以後の1980年代のボウイは我々を裏切ったと認識していましたし、どこかで総括しないといけないと考え、それまで書いていたことをまとめました。1996年の論文と『政治の美学』に入れた原稿は、基本的な主張は変わっていません。
裏切ったと思った彼が『1.Outside』(1995年)からはっきり変わりつつあることは当時も感じてはいました。でも、1980年代末の低迷からティン・マシーンというバンドを数年間結成していた頃には、なんとかしようとはしているんだろうけど、ちょっとダメだな(笑)、この人はもう終わりかもしれないと思った。それで、1970年代から1980年代はじめまでのボウイがやろうとしたことについて、自分なりに落とし前をつけたいと論文にしたんです。『政治の美学』のように文化と政治、芸術と政治を考えるうえでボウイは非常に重要だと声高にいわないといけない。岩谷さんはもう音楽を論じることはやめていたし、彼以上に信じられる書き手はどこにもいませんでしたから、自分で書くしかないと思いました。