『古見さんは、コミュ症です。』は人間関係の本質に触れている コントロールできないコミュニケーションの難しさ
普段、我々は「コミュニケーションが大事」とよく言う。しかし、「コミュニケーションとは何か」と聞かれて、きちんと答えられる人は少ないだろう。コミュニケーションの正体を正確に把握するのは難しい。
正体がわからないなら、上手いコミュニケーションのやり方だってわかるはずがない。にもかかわらず、現代社会は「コミュニケーションが大事」と強迫観念のように迫ってくる。
オダトモヒトの漫画『古見さんは、コミュ症です。』は、そんなコミュニケーションの本来の難しさと不思議さがコミカルに描かれている。ライトな筆致だが、実は人間関係の本質的に重要な部分に触れている作品なのではないかと思う。
言語コミュニケーションの2つの意味
本作は、平均的で目立たない高校生活をおくろうと心に決めた男子、只野仁人(ただのひとひと)が、全校イチの美女だが他人と会話ができない「コミュ症」の古見さんと友達になり、古見さんの目標である友達を100人作ることを手伝うという物語だ。
古見さんは、他者を前にすると極度の緊張で声が出せなくなってしまう。しかし、その美貌ゆえにそのことが周囲に伝わらない。外見のせいで妙に一目置かれてしまい、高嶺の花的な扱いになっている。そんな中、只野はふとしたことで、古見さんがしゃべるのが苦手な人だと判断し、黒板に書くという行為を通じて友達となる。
古見さんが「コミュ症」と言われる所以は、このしゃべることができないという点にある。なぜなら、人間社会は、言語を中心としたコミュニケーションによって支えられているからだ。社会学者の大澤真幸は、「社会システムは、コミュニケーションを要素とするシステム」であり、「人間のコミュニケーションの大部分、もっとも豊かで多様な部分は言語的コミュニケーションである」と書いている(「コミュニケーションの(不)可能性の条件 沈黙の双子をめぐって」、『現代思想』2017年3月号、P36)。
大澤は、発話のコミュニケーションには2つのレベルの意味が存在すると言う。「文の意味」と「発話の意味」だ。例えば、「今日はいい天気ですね」と発話をしたとき、文の意味としてはその日の天気が晴れであることを意味するが、それを言った人は晴れていることを伝えたいわけではない。おそらく、会話のきっかけが欲しいとかそんなことだろう。これが発話の意味だ。
発話者が何か話す時、大抵の場合、上のような2つの意図を持っている。受け手が、その2つの意図に気づけるか、あるいはその意図を受け入れるか拒否するかが問題になる。
女の子が男の子に対して、「あの店のスイーツが美味しいらしい。行ってみたい」と言った時、「文の意味」はそのままだとして、受け手の男の子は、「発話の意味」を「一緒に行きたい」と解釈するかもしれない。でも、実際は違うかもしれない。「発話の意味」をどのように解釈するかで受け手はリアクションを変える必要がある。受け手はそれを絶えず類推せねばならず、その上で、自分の最適な言動を選択せねばならない。当然、受け手の返答にも2つの意味が存在するので、今度は最初の発話者がそれを類推する。発話者が返したら、さらにそれを類推する……。言語のコミュニケーションとは、実はこんなに複雑なことをやっているわけだ。改めて考えると、すごいことではないだろうか。
古見さんは友達が欲しい。だから「友達になってください」と言いたい。だが、言えない。只野は最初、古見さんが友達100人作るのは簡単だと考えていた。本人がしゃべれなくとも、只野が「古見さんが友達になりたがっている」と言えば、誰もが友達になってくれるだろうと考えていたからだ。
言語コミュニケーションに「文の意味」という1つの意味しかなかったのなら、只野の考え通りにすんなりと事は運んだだろう。しかし、受け手は発話の意味も考えてしまう。「古見さんのような超絶美人がなぜ自分と友達に? なんの意図があるんだろう」とか。さらに、そもそも只野がなんでそんなことを言ってくるのかとも考える(実際、古見さんを一方的に溺愛している山井さんは、只野が調子に乗っていると解釈した)。結果、それを伝えるだけでは友達になれないので、只野はいろいろな策を講じなくてはならない。例えば、最初の友達候補として選んだ長名なじみには、一緒に下校させるなどの工夫が必要になるわけだ。