村上龍『MISSING』はなぜ私小説的な表現になった? メルマガ連載で著された“D2C文学”の可能性

村上龍『MISSING』D2C文学の可能性

 村上龍の最新長編『MISSING 失われているもの』は2013年12月から村上が主宰する無料メールマガジンJMM上に連載されたものを単行本化した作品だ。

 配信中はバックナンバーが一定期間、村上龍のサイト上で読めたから、これは一種のウェブ小説だ――と考えて、拙著『ウェブ小説の衝撃』の元になった出版業界紙「新文化」の連載「衝撃 ネット小説のいま」に出てもらえないかと取材のオファーをしたが、残念ながら叶わなかった。

 ようやく単行本として2020年2月に刊行された本作を電子書籍版で読んで、私はやはりこの作品はウェブ小説のひとつとして――そのきわめて珍しいパターンとして――捉えるべきだという想いを強くした。

2010年代になってメールマガジンから生まれた小説

 メールマガジンの連載から生まれた小説、と聞いて筆者が真っ先に思い浮かぶのは、惜しくも若くして亡くなった吉野匠によるファンタジーウェブ小説のクラシック『レイン』だ。

 そして2010年代になってなお、プロデビューしたあとの作家が無料メルマガで連載をして単行本になったという例は、『MISSING』と『レイン』以外、寡聞にして知らない。

 2010年代初頭には有料メルマガブームがあり、ドワンゴが運営するブロマガ上で『家畜人ヤプー』の続編が連載配信され、のちに伊藤ヒロ+満月照子『家畜人ヤプーAgain』として書籍化されたことがあったが、それにしても今どきメルマガ発の小説自体、稀有である。

 メルマガで連載されたことは明らかに作品内容に影響を与えているのだが、これについては後述しよう。

マルチメディア表現の可能性

 『MISSING』は紙で刊行された単行本は縦書きで特にほとんど図版は入っていない。だが興味深いことに、村上龍が自身の会社である村上龍電子本製作所/G2010が制作した電子書籍版では、メルマガ掲載時にそうであったように、村上龍自身が撮影・加工・配置を考えたという写真が多数掲載され、横書きで組まれている。

 メルマガ版に深い愛着があり、ひとつの「作品」として彼が望むかたちが電子書籍版にある、ということがわかる。

 村上龍は、G2010を設立して最初にリリースした電子書籍『歌うクジラ』には盟友・坂本龍一の音楽を付けていたり、デビュー作『限りなく透明に近いブルー』のアプリ版では「群像」新人賞への手書きの応募原稿を再録したり、あるいは小説だけでなく自身で脚本を書き映画を撮った『KYOKO』のアプリ版には映画撮影時の映像を収録したりしている。

 つまり文字だけの表現では飽き足らず、90年代から2010年ころまで多くの人が「電子書籍」なるものに夢見てきたマルチメディア表現の可能性を今でも追い求めているという、今となっては非常に数少ない存在が村上龍なのだ。

 団塊の世代にわずかに遅れて生まれてきたがために政治の季節の高揚にはほとんど参加できず、政治ではなく表現の革命を追い求めた世代ということもあるだろうし、そもそもデビュー作ではLSDを摂取して得られた強烈な視覚体験をなんとか文字に落とし込もうとしていた作家でもあった。なにより、手ひどい失敗作になったものの『だいじょうぶマイ・フレンド』をはじめ映画監督業に進出し、映像表現に強い憧れを抱いていたクリエイターでもある。

 村上龍の手がける電子書籍はもともとの越境的な志向性を、今のテクノロジーを使って(映画ほどの予算はかけずに)表現しうる媒体として、おそらく彼のなかでは重要なものなのだと思う。

 たとえば『MISSING』の電子書籍版では「ああ、村上龍の頭の中に浮かんだイメージはこういう感じで、文章ではこう表現しているけど、画像で表現するとこんな感じなわけね」という写真と文の組み合わせに幾度も出会う。こちらとしては彼自身が手がけたらしい写真や写真を使った扉のデザインに関しての若干の素人くささが気になるが、本人は「村上龍電子本製作所」のFacebookページで、どこにどんな図版を入れるのか考えるのが楽しい、と書いていた。文章だけで表現できないプラスオンの表現ができることに、この作家は大きな喜びを感じているのだ。

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