葛西純自伝『狂猿』第7回 「クレイジーモンキー」の誕生と母の涙
デスマッチファイター葛西純自伝『狂猿』
葛西純は、プロレスラーのなかでも、ごく一部の選手しか足を踏み入れないデスマッチの世界で「カリスマ」と呼ばれている選手だ。20年以上のキャリアのなかで、さまざまな形式のデスマッチを行い、数々の伝説を打ち立ててきた。その激闘の歴史は、観客の脳裏と「マット界で最も傷だらけ」といわれる背中に刻まれている。クレイジーモンキー【狂猿】の異名を持つ男はなぜ、自らの体に傷を刻み込みながら、闘い続けるのか。そのすべてが葛西純本人の口から語られる、衝撃的自伝ストーリー。
第1回:デスマッチファイター葛西純が明かす、少年時代に見たプロレスの衝撃
第2回:勉強も運動もできない、不良でさえもなかった”その他大勢”の少年時代
第3回:格闘家を目指して上京、ガードマンとして働き始めるが……
第4回:大日本プロレス入団、母と交わした「5年」の約束
第5回:九死に一生を得た交通事故、プロレス界の歴史は変わっていた
第6回:ボコボコにされて嬉し涙を流したデスマッチデビュー
当時の大日本プロレスのなかで、本間、山川、WX、ウィンガーというのがデスマッチ戦線の四天王で、彼らに比べて俺っちは、体格的に見てもテクニック的に見ても、まだまだだと感じていた。強さだけじゃなく、華や色気みたいな部分でも全部劣っていたから、どうすればこの4人を超えられるのか、デスマッチファイターとして上に行けるのかということを模索していた。
CZWに加入しザンディグとタッグ結成
そのころ、大日本プロレスでは年末の「最侠タッグリーグ」が始まるという時期だった。CZWからはザンディグとニック・ゲージがタッグを組んで出場する予定だったんだけど、ニック・ゲージがビザのトラブルで来日できなくなってしまった。会社内で、じゃあザンディグのパートナーどうするってモメてるときに、ここで俺がいったら面白いんじゃないかなとひらめいた。CZWの奴らとはノリが合ったし、特にどのユニットに属してるわけでもなかった俺っちがガイジン軍団に入ってしまえば、単純に目立つんじゃないかと思ってね。それで、札幌の大会のときにリング上でアピールして、ザンディグのパートナーに名乗りをあげた。会社はどう思ったかわからないけど、お客さんの支持は得られて、俺っちは日本人なのにCZWに加入する形になり、ザンディグとタッグを組むことになった。
この「最侠タッグリーグ」では、準決勝でシャドウWX&アブドーラ・ザ・ブッチャー組と戦って、ブッチャーからフォールを取った。ブッチャーとは、その前から試合をする機会があったんだけど、子供の頃から見ていたブッチャーに勝ったのは感慨深かったね。
ブッチャーは試合では容赦ない人でいつもボコボコにされたけど、リングを降りれば紳士で、俺っちのことをすごく可愛がってくれた。ご飯をご馳走になったことあるし、「ヤングボーイにシューズ買ってきてやったよ」って、スニーカーも2回ぐらいプレゼントしてもらった。俺っちの髪の毛がちょっと伸びてる感じだったら「このマネーで床屋行ってこい」ってお金もらったこともある。若手に対して、面倒見がいい人だった。
俺っちのタッグパートナーとなったザンディグは、不思議な魅力のある男だった。ザンディグからは、プロレスのテクニックや、練習のやりかたとかに関しては見習う部分はまったく無かったけど、プロレスラーとしての自己プロデュース法とか、個性の出し方というのは側で見ていてすごく参考になった。ザンディグはリングの内外で、どんなパフォーマンスすれば自分を売り込めるか、この業界で上がっていけるかということをいつも考えていて、デスマッチに対しての哲学も独特だった。
デスマッチファイターによって考え方は違うと思うけど、ザンディグは、デスマッチという普通のプロレスと違うことをやるからにはオーディエンスにたっぷり期待させて、喜ばせて、その期待を超えるインパクトを残していかないとダメだと言っていた。デスマッチなのに地味なことをやって、お客さんにも伝わらない自己満足するような試合をしても意味がない。その姿勢には、俺っちも少なからず影響を受けたと思う。そんなザンディグに比べると、他のCZWメンバーはおとなしいというか、何も考えてないようにみえた。試合以外ではそこまで暴れることもないし、いま思えばみんな若手のガキだった。そのなかで、ザンディグは頭1つも2つも抜きん出たビッグボスだったし、不思議なカリスマ性があった。